「大政翼賛会」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
35行目:
近衛も米内内閣の後の[[第2次近衛内閣]]成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛の[[ブレーン]]であった[[後藤隆之助]]が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体[[昭和研究会]]が[[東亜協同体論]]や[[新体制運動]]促進などをうたっていた。
 
構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は[[内閣総理大臣]]。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、[[町内会]]、部落会などが設置される。本部は接収した[[東京會舘]]に置かれた。
 
[[1940年]]、[[結社]]を禁止されていた[[勤労国民党]]や[[立憲養正会]]等を除く保守政党から非合法の[[日本共産党]]を除く[[無産政党]]まですべての[[政党]]が自発的に解散し大政翼賛会に合流した。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって[[1940年]]11月に解散した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し([[貴族院 (日本)|貴族院]]ではもともと政党はなく[[院内会派]]が政党的存在であった)、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動はおこなえず、関連団体である[[翼賛議員同盟]]などが政治活動をおこなった。これは、「'''勝ち馬に乗り遅れるな'''」という言い回しで知られるが、解散した各政党や[[内務省 (日本)|内務省]]等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。