「笑福亭仁鶴 (3代目)」の版間の差分
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[[1960年代]]後半以降、落語ブームも相まって、[[月亭可朝]]や[[桂文枝 (6代目)|桂三枝(現:6代桂文枝)]]とともに、吉本興業の顔として花月劇場チェーンへの出演のかたわら、テレビ、ラジオ、映画、レコードに多数出演。お笑いタレントの宝庫としての吉本の基礎を築いた。戦後の吉本に対する仁鶴の功績について、漫才作家[[足立克己]]は「今日の吉本の基は仁鶴が作った」「吉本中興の祖」と評した{{要出典|date=2017-09}}。吉本の総帥と呼ばれた[[林正之助]]でさえ、仁鶴には頭が上がらなかったという(初代桂春團治などの大物芸人ですら呼び捨てにしていた正之助が、仁鶴だけは「さん」付けで呼んでいたと後輩の[[前田五郎]]は著書に記している{{要出典|date=2017-09}})。正之助は生前、「仁鶴の面倒は一生吉本で見るようにせい」と言い残している。
ラジオの深夜放送『[[オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に!]]』([[大阪放送|ラジオ大阪]]、火曜日担当)や『[[ABCヤングリクエスト]]』([[
やがて仁鶴は、『[[ヤングおー!おー!]]』([[MBSテレビ]])を通じて全国区のタレントとなった。『ヤングおー!おー!』では、放送開始直後に「ごきげんよう! ごきげんよう!」とがなり立て、裏番組の『[[てなもんや一本槍]]』([[
落語会や寄席でも人気が上昇し、[[めくり]]が仁鶴の名に変わるだけで笑いと拍手が起こり、登場すると同時に歓声が沸いて、落語を始めるのに10分近くかかったという。そのため、当時[[漫談]]の[[滝あきら]]からは「笑いの爆弾男」とのあだ名を付けられる。
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