「セロニアス・モンク」の版間の差分

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*上記の共演は後に「喧嘩セッション」と呼ばれ、誰と共演しようが自分を曲げないモンクらしいエピソードとして受容されていた。だが、実際にはマイルスが後年自伝の『マイルス・デイビス自叙伝 I 』で記した通り、和声のボイシングに違和感を覚えたため「自分のソロの最中はピアノを弾かないでくれ」と指示し、モンクがそれを了承しただけであり、現在はその事がミュージシャンや評論家達の間で曲解された結果として生まれた[[デマ]]であるとする見方が強い。同書においてマイルスは曲作りにおいて大いに勉強をさせてもらい、また、その演奏も「間」の取り方や不思議なコードに感動し、大いに影響を受けたと語っている。
* [[ジャズ喫茶]]のマスターでもあった作家の[[村上春樹]]は編・訳した『[[セロニアス・モンクのいた風景]]』のエッセイで「彼の音楽は~何かすごいもの、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう「謎の男」みたいだった」と書いている。
* 生年月日1920年説について。古くからのジャズファンならば、1920年とプロフィールを記憶している人も多いが、それがなぜ1917年になったのか。それはモンクの死後に変更された。おそらくは葬儀において正式な書類が見つかったからか、ずっと誤りであったがこれを期に正しい生年月日にしようと、家族が訂正されたのだと思われる。
 
== ディスコグラフィ ==