「長寿寺 (名古屋市)」の版間の差分

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なお、当寺は前述のとおり志水氏の菩提寺として、江戸時代には同氏一族の占有となっていたため、一般の檀家は少数である。また、寺域内には志水氏の9代から14代までの墓がある。<ref name=":0">{{Cite book|author=大高町誌編纂委員会|title=大高町誌|date=|year=1960|accessdate=|publisher=黎明書房|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
 
文化から文政年間(1804から1829頃)にかけて、知多四国八十八ヶ所霊場の87番札所として弘法堂が設けられた。
明治21年(1888)7月19日、火災により本堂および庫裡を焼失。この際、本尊は偶然寺の付近で[[東海道本線]]の工事をしていた作業員らにより運び出され、無事であった。その後明治31年(1898)に新しい本堂、庫裡が再建された。<ref name=":0" />
 
明治21年(1888)7月19日、火災により本堂および庫裡を焼失。この際、本尊は偶然寺の付近で[[東海道本線]]の工事をしていた作業員らにより運び出され、無事であった。その後明治31年(1898)に新しい本堂、庫裡が再建された。このとき焼失を免れ残っていた山門(鐘楼門)は大正元年(1912)の台風で倒壊し、後に再建された。<ref name=":0" />
 
昭和20年(1945)3月から5月にかけての[[名古屋大空襲]]によって山門その他諸堂や蔵などを焼失。貴重な資料の多くが失われた。
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== 境内 ==
 
* 本堂
* 弘法堂 [[知多四国八十八箇所]]の第87番札所
* 山門(鐘楼門) 昭和54年(1979)再建
* 庫裡
* 高蔵坊(こうぞんぼう)稲荷
* 長寿寺会館 2階建て。葬儀や法要、地域のイベント等に使用される会館となっている