「西光万吉」の版間の差分

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労働農民党、[[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]]に参加したが、[[三・一五事件]]で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は[[国粋主義]]に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から[[大日本青年党]]と協同し、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに[[石川準十郎]]の[[大日本国家社会党]]に入党して[[国家社会主義]]運動に加わる。こうした融和主義的な姿勢は「水平社」の頃の思想とは全く相いれないものであった。
 
第二次世界大戦後は、一転して日本の再軍備に反対し、戦地または貧困地域に非武装集団「和栄隊」を派遣する「不戦和栄」を訴えた<ref>明石書店「水平社宣言起草者西光万吉の戦後」</ref>。原水爆禁止運動にも加わるなど社会運動にも取り組んだが、部落問題に関わることはなかった。生前に公の場で半生を回顧する機会もなく、画家として余生を送った。
 
後世の評価には、部落解放運動における西光の水平社宣言がクローズアップされる一方、思想転向後の経歴は黙殺されることも多い。[[永六輔]]は[[1968年]]頃に芸能史の取材で西光と会っているが、「ひょっとしてあなたは、水平社宣言をお書きになった先生ですか」と永に尋ねられた西光は非常に困惑した顔を見せたという<ref>http://www.jinken.ne.jp/flat_now/buraku/2001/02/02/1345.html</ref>。