西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 - 1970年(昭和45年)3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆[1][2]

左側の人物が西光 駒井喜作(中央)、泉野利喜蔵(右側)とともに 1922年

人物 編集

全国水平社設立の中心人物で、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた[3]

奈良県御所市被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。この頃から多くの社会活動家に面会するなどしているが、そのきっかけは、「主義者は部落民を差別しないから」(晩年の述懐)という単純な理由であったといわれる。また佐野学が1921年に発表した「特殊部落民解放論」から大きな影響を受け全国水平社設立につながった[4]

労働農民党、第二次共産党に参加したが、三・一五事件で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から大日本青年党と協同し、一君万民、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに石川準十郎大日本国家社会党に入党して国家社会主義運動に加わる。

第二次世界大戦後は、一転して日本の再軍備に反対し、戦地または貧困地域に非武装集団「和栄隊」を派遣する「不戦和栄」を訴えた[5]。原水爆禁止運動にも加わるなど社会運動にも取り組んだが、部落問題に関わることはなかった。生前に公の場で半生を回顧する機会もなく、画家として余生を送った。

後世の評価には、部落解放運動における西光の水平社宣言がクローズアップされる一方、思想転向後の経歴は黙殺されることも多い。永六輔1968年頃に芸能史の取材で西光と会っているが、「ひょっとしてあなたは、水平社宣言をお書きになった先生ですか」と永に尋ねられた西光は非常に困惑した顔を見せたという[6]

晩年は和歌山県打田町に自宅を構えた。1970年3月20日、腹膜炎のため和歌山赤十字病院で死去。74歳[7]

略歴 編集

その他 編集

  • 幼年期より絵画の才能に恵まれており、早くから数々の賞を受けるなど実力を認められていた。晩年には画家としても多くの作品を残している。
  • 青年時代に転入学を繰り返しているが、教師や級友などの出自に対する差別行為から逃れるためだったといわれる。こうした被差別体験による逃避意識は、後年のセレベス移住計画の伏線ともなった。
  • 住井すゑ著「橋のない川」に登場する小森村安養寺の息子、村上秀昭(秀坊ん)のモデルとされる。
  • 和歌山県紀の川市の寓居跡に「不戦和栄の碑 - 西光万吉永住の地」の碑がある。
  • 大阪人権博物館内には、水平社宣言を記念した「西光万吉記念室」が置かれている。

脚注 編集

  1. ^ 朝治武 2013, p. 105.
  2. ^ 中央融和事業協会 編『融和事業年鑑(大正15年)』中央融和事業協会、1926年7月30日、225頁。NDLJP:976216/119 
  3. ^ 木村京太郎『水平社運動の思い出』下巻232頁
  4. ^ 朝治武 2013, pp. 105–106.
  5. ^ 明石書店「水平社宣言起草者西光万吉の戦後」
  6. ^ 僕は水平社宣言の執筆者、西光万吉さんと逢ったんだ 永六輔さん 1(ふらっと 人権情報ネットワーク) - ウェイバックマシン(2016年3月14日アーカイブ分)
  7. ^ 訃報欄 西光万吉(水平社創設者の一人)『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月20日夕刊 3版 11面

参考文献 編集

  • 朝治武『差別と反逆 平野小剣の生涯』筑摩書房、2013年。ISBN 978-4-480-88529-6 

関連書籍 編集

外部リンク 編集