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'''メリク・テムル'''('''Melig-Temür''', ? - [[1307年]])は、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の皇族。漢字表記は明里鉄木児/滅裏鉄木而/滅裏鉄木児/明裏鉄木児など、『[[集史]]』などのペルシア語表記では ملك تيمور (Malik Tīmūr) 。[[モンゴル高原]]の北西部に勢力をもった。
 
== 概要 ==
[[モンケ]]・[[クビライ]]兄弟の弟[[アリクブケ]]の次男。長兄に[[ヨブクル]]がいる。[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]に敗れたアリクブケが兄のクビライに降伏して帝位を放棄した後、[[1266年]]に病没すると、兄弟の父[[トルイ]]の家の所領([[ウルス]])であるモンゴル高原のうち、アリクブケが与えられていた北西部の一帯を兄弟とともに継承した。アリクブケの妃の実家である[[オイラト]]部のいた現在の[[トゥヴァ共和国]]に地理的に近いため、オイラトが兄弟と連合していたとみられ、アリクブケが没落したといえども高原北西部から南[[シベリア]]の森林地帯にかけて隠然たる実力をもっていた。
 
クビライが嫡子のひとり[[ノムガン]]に北平王の爵位を与えモンゴル高原に駐留させると、メリク・テムルもこれに従った。[[1276年]]、ノムガンが[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]の混乱に乗じて[[中央アジア]]のチャガタイ家の本拠地[[イリ川]]渓谷に進駐していたとき、軍中にいたメリク・テムルは兄ヨブクルとともにモンケの遺児[[シリギ]]の陰謀に加わり、ともに反乱を起こしてノムガンとその補佐役である右丞相[[アントン (ジャライル部)|アントン]]を捕らえた('''シリギの乱''')。彼らは、クビライに対して反抗的な立場をとっていた[[オゴデイ・ハン国|オゴデイ家]]の[[カイドゥ]]に接近してアントンを引渡し、西方諸王の支援を受けてモンゴル高原の制圧を目指したが、統一的な動きが取れないうちにクビライが送り込んだ左丞相[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]の軍に各個撃破され、シリギも捕らえられた。シリギの反乱軍は崩壊し、反乱者は次々にクビライに投降したが、首謀者の一角であったために処罰を恐れたメリク・テムル兄弟は、アリクブケのウルスを率いてカイドゥの配下に入った。至元27年([[1290年]])にカイドゥが大元ウルスに侵攻した際にはヨブクル、メリク・テムルも従軍し、[[ヤクドゥ]]の輜重を掠奪している<ref>『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「[至元]二十七年、海都入寇。時朶児哈方居守大帳、詔遣牙忽都同力備御。軍未戦而潰、牙忽都妻帑輜重駐不思哈剌嶺上、悉為薬木忽児・明理帖木児所掠。牙忽都与其子脱列帖木児相失、独与十三騎奔還」</ref>
 
メリク・テムルはその後も20年以上にわたってカイドゥ陣営の対クビライ家(元)の最前線で戦いつづけたが、[[1297年]]には兄ヨブクルが元に投降した<ref>松田1983,40頁</ref>。さらに大徳5年([[1301年]]にカイドゥが没すると、[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]の[[ドゥア]]が台頭してカイドゥの遺児[[チャパル]]に反旗を翻し、カイドゥの連合勢力は瓦解の危機を迎えた。大徳7年([[13061303年]])にはメリク・テムルはついとチャパルが連名で大元ウルス対し停戦を呼びかけている<ref>『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年秋七月]丁丑……都哇・察八而・滅裏鉄木而等遣使請息兵、帝命安西王慎飭軍士、安置駅伝、以俟其来」</ref>。大徳11年([[1306年]])、対カイドゥ・ウルスの司令官であった[[カイシャン]](後の武宗ビラルク・カーン)がアルタ山脈駐屯する反抗メリク・テムル軍断念急襲<ref>『元史』巻119列伝6月赤察児伝,「[大徳]十年冬叛王滅裏鉄木児等屯於金山、武宗帥師出其不意、先逾金山、月赤察児以諸軍継往、壓之以威、啖之以利、滅裏鉄木児乃降」</ref>、遂にメリク・テムルは[[イルティシュ川]]流域にてクビライ家の元に降伏した<ref>『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳]十年……八月、至也裏的失之地、受諸降王禿満・明裏鉄木児・阿魯灰等降」</ref>
 
メリク・テムルはクビライの孫にあたる安西王[[アナンダ]]にともなわれ元の首都[[大都]]に向かったが、翌1307年正月、大ハーンの[[テムル]]が病没した。テムルの皇后[[ブルガン]]は自己の権勢を保つため、テムルの従兄弟であるアナンダを大都に迎え入れてハーンに据える陰謀をめぐらした。しかし、アナンダとメリク・テムルが大都に到着したとき、テムルの甥[[アユルバルワダ]]を推す派による[[クーデター]]が起こり、メリク・テムルはアナンダ、ブルガンとともに捕らえられた。モンゴル高原でオゴデイ家と戦っていたアユルバルワダの兄[[カイシャン]]が即位のためもうひとつの首都[[上都]]に到着すると、メリク・テムルはアナンダの帝位簒奪に協力した罪により、アナンダとともに処刑された<ref>『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年]五月、[海山]至上都。乙丑、仁宗侍太后来会、左右部諸王畢至会議、乃廃皇后伯要真氏、出居東安州、賜死。執安西王阿難答・諸王明裏鉄木児至上都、亦皆賜死」</ref>
 
メリク・テムルの刑死後もアリクブケ家は存続し勢力を保ちつづけたが、クビライ家が政権を維持している間、もはや政治的に浮上することはなかった。アリクブケ家に属する[[イェスデル]](ジョリグト・ハーン)がクビライ家最後の大ハーン、[[トグス・テムル]](ウスハル・ハーン)を殺害してクビライ家をいったん断絶させ、ハーン位を簒奪するのは[[北元]]時代の[[1388年]]のことである。また、[[1335年]]に[[イラン]]の[[フレグ]]家が断絶したとき、[[イルハン朝]]のハン位を相続した[[アルパ・ケウン]]はメリク・テムルの曾孫であった。
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この「ノコル一覧」から、アリク・ブケ・ウルス及びメリク・テムル・ウルスではスルドスとコンゴタンの2部族が重要な位置を占めていたと考えられている。
 
コンゴタンはモンゴル帝国成立以前から代々シャーマンを務める特殊な一族であること、スルドスはチンギス・カン家の者が葬られるブダ・ウンドゥル一帯を遊牧地とすること、などからこのウルスはチンギス・カン家の祭祀を務める特殊な性格を有していたと考えられている。メリク・テムル・ウルスがチンギス・カン家の祭祀を務めていたのは、メリク・テムルがチンギス・カンの末子(トゥルイ)の末子(アリク・ブケ)の末子であるという出自が関係していると考えられている<ref>松田1988,93-96頁</ref>。
 
== アリク・ブケ王家 ==
*[[アリクブケ|アリク・ブケ大王]](Ariq, Buke >阿里不哥大王/اریغ/ālǐbúgē,اریغ بوکاArīqبوکا/Arīq būkā)
**[[ヨブクル|威定王ヨブクル]](Yobuqur,威定王玉木忽爾/یوبوقورYūbūqūr)/yùmùhūěr,یوبوقور/Yūbūqūr)
**'''メリク・テムル'''(Melik temür, >明里帖木児/ملک/mínglǐtiēmùér,ملک تیمورMelikتیمور/Melik tīmūr)
***[[メリク・テムル#子孫|ミンガン]]({{lang|mn|Mingγan}},/منگقان) >منگقان/mingqān)
****[[メリク・テムル#子孫|ソセ]](Söse,/منگقان) >sūsa/سوسه)
*****[[アルパ・ケウン|アルバ・クウン]](Arpa Ku'ün,/ارپا كاون>ارپا كاون/Arpā Kāūn)
**[[ナイラ・ブカ|ナイラ・ブカ大王]](Nairaqu buqa, >乃剌忽不花大王/نایرو/nǎiláhūbúhuā,نایرو بوقاNāīrūبوقا/Nāīrū būqā)
 
== 脚注 ==