「健磐龍命」の版間の差分

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| 画像説明 =
| 時代 = [[古代#日本史|古代]]
| 生誕 = (伝)[[神武天皇]]の時代<ref group="注">父である神八井耳命が神武天皇元年以降の誕生であり(『日本書紀』)、健磐龍命の事績の最初の記録が神武天皇76年のものである(『[[#ruien|古事類苑. 神祇部30]]』)ので、健磐龍命の生誕は[[神武天皇]]元年から同76年の間と推測される。</ref><br />(ただし実在性不確か、また諸説あり)
| 死没 = (伝)[[崇神天皇]]の時代以降<ref group="注">建五百建命は崇神天皇の時代に初代[[科野国造]]に任命されている(「[[国造本紀]]」。[[#国造本紀|後述]]。)ので、死没はそれ以降と推測できる。なお『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]段には阿蘇都彦が登場する([[#日本書紀|後述]])が、人ではなく神として登場するので生存記録とみなしうるか不明である。</ref><br />(ただし実在性不確か)
| 死没 = (伝)[[崇神天皇]]の時代以降<br />(ただし実在性不確か)
| 改名 =
| 別名 = 天健磐龍命<ref name="ruien"/><br />'''阿蘇都彦命'''<ref name="ruien">『[[#ruien|古事類苑. 神祇部30]]』。</ref><br />その他は本文参照
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'''健磐龍命'''<ref name="keizu"/>(たけいわたつ の みこと)は、[[古代#日本史|古代]][[日本]]の人物。'''建五百建命'''<ref name="hongi"/>(たけいおたつ の みこと/{{要出典|範囲=たけいおたけ の みこと|date=2018年7月}})、'''阿蘇都彦命'''<ref name="ruien"/>(あそつひこ-)の名でも知られる。
 
のちに神格化された。現在は[[阿蘇神社]]の祭神として知られ<ref>「健磐竜命」『日本人名大辞典』 講談社。</ref>、健磐命神<ref name="shiki"/>、健磐龍神<ref name="ruien"/>、'''阿蘇神'''<ref name="ruien"/>、阿蘇大神<ref name="gunshi"/>という[[神号]]を持つ。さらにのちには[[阿蘇山]]の[[火山神]]としての性格も備えた。
 
[[阿蘇氏]]、[[金刺氏]]、[[他田氏]]の祖である<ref name="keizu"/>。また[[諏訪氏]]の祖ともいうが、諏訪氏は通常は[[建御名方神]]の子孫とされる。
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** 阿蘇津彦尊<ref name="ruien"/>
 
== 生涯系譜 ==
健磐龍命の家系については三説がある。
=== 誕生 ===
健磐龍命は[[神八井耳命]]の第5子として誕生した<ref name="gunshi"/><ref name="ruien"/>(ただし異説あり、[[#系譜|後述]])。父である神八井耳命は[[神武天皇]](初代[[天皇]])の第2[[皇子]]で、[[綏靖天皇]](第2代天皇)の兄である。『[[日本書紀]]』によれば、神八井耳命は天皇の位を弟に譲り、[[神祇]]を奉典したという。
 
健磐龍命が誕生したの第一、'''[[武天皇元年から同76年八井耳命]]'''第5子推測され<ref groupname="gunshi"/><ref name="ruien"/>これは父である神八井耳命は[[神武天皇元年以降の誕生であり]]『日本書紀』初代[[天皇]]、健磐龍命事績の最初の記録が神武第2[[皇子]]で[[綏靖天皇76年のも]](第2代天皇)である(『り、天皇の位を弟に譲って[[#ruien|古事類苑. 神祇部30]]』)こを奉典したからわかるいう<ref>『[[日本書紀]]』。</ref>。
 
第二は、建五百建命を神八井耳命の孫とする説<ref>『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」。</ref>である。
=== 九州下向 ===
[[神武天皇]]76年に神武天皇は孫である健磐龍命に[[西海道|西海]]鎮撫の命をくだして[[火国|火の国]]に封じ、「[[九州]]の長官」として下向させた<ref name="gunshi"/><ref name="jingu"/>。この年の[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]に[[阿蘇郡|阿蘇]]に封じたともいう<ref name="ruien"/>。健磐龍命はこの年の2月に[[山城国]][[宇治郷]]あるいは[[大和国]]から<ref name="ruien"/>阿蘇に下向した<ref name="gunshi"/>。この途中に[[宮崎郡|宮崎]]において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが[[宮崎神宮]]の創祀とされる<ref name="gunshi"/><ref name="jingu"/>。なお、のちの[[阿蘇神社]]の[[大宮司]]家(健磐龍命の子孫)が[[宇治氏]]なのは、健磐龍命の出発地が宇治であることによるという<ref name="ruien"/>。
 
第三は、神八井耳命の[[曽孫]]である'''[[敷桁彦命]]'''の子とする説<ref name="keizu"/>である。この場合、兄に[[武恵賀前命]]([[多氏]]の祖)、弟に[[建緒組命]]([[火国造]])がいる。
=== 結婚と阿蘇統治 ===
健磐龍命はそこから[[阿蘇山]]の東側にある[[草部村|草壁]]にうつり、地元の豪族[[日子八井命|草部吉見神(国龍神)]]の娘<ref name="ruien"/>'''[[阿蘇都媛命]]'''<ref name="ruien"/>([[#系譜|後述]])を[[嫡妻]]<ref name="sosyo"/>としたという<ref name="gunshi"/>。
 
* [[嫡妻]]<ref name="sosyo">『[[#sosyo|諏訪史料叢書. 巻28]]』。</ref>:'''[[阿蘇都媛命]]'''<ref name="ruien"/>(阿蘇都媛<ref name="syoki"/>(あそつひめ<ref name="kou"/>)){{Refnest|group="注"|阿蘇津媛<ref name="ruien"/>、阿蘇都姫<ref name="ruien"/>、阿蘇姫<ref name="ruien"/>、阿蘇比売神<ref name="sosyo"/>、阿蘇比咩命<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩神<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩<ref name="ruien"/>、阿蘇都比咩神<ref name="ruiengunshi"/>とも。}} - [[日子八井命|草部吉見神(国龍、比咩)]]の娘<ref name="ruien"/>。ただし[[建御名方命]]の5世孫の[[会知早雄命]]の娘する系図<ref name="sosyo"/>ある。また、健磐龍命の嫡妻を'''[[会知速比売]]'''とする系図もある<ref>『[[#seishi2|姓氏家系大辞典. 第2巻]]』。</ref>}}
*: [[日子八井命|草部吉見神(国龍神)]]{{Refnest|group="注"|[[神武東征]]の際に[[日向国|日向]]の[[高知尾]]にとどまって留守をした皇子で、のちに草壁にうつったとされる<ref name="gunshi"/>。「草壁」という地名は、草を仮御所の屋根・壁としたことに由来するといい、のちに「草部」となった<ref name="gunshi"/>。この神は、『[[古事記]]』によれば健磐龍命の父である[[神八井耳命]]の兄で、健磐龍命からみると[[伯父]]にあたる(なお、『[[日本書紀]]』には記載はない)。すなわち阿蘇都媛命は健磐龍命とはたがいに[[いとこ]]の関係にあり、いわゆる[[いとこ婚]]となる。}}の娘<ref name="ruien"/>。また、阿蘇比売神を[[建御名方命]]の5世孫の[[会知早雄命]]の娘とする系図<ref name="sosyo"/>もある。また、健磐龍命の嫡妻を'''[[会知速比売]]'''とする系図もある<ref>『[[#seishi2|姓氏家系大辞典. 第2巻]]』。</ref>。「阿蘇都媛」・「阿蘇都彦」のように、[[ヒメ]]と[[ヒコ]]の二者(この場合は夫婦)がペアで統治を行う体制は[[ヒメヒコ制]]と呼ばれる。
** 子:'''[[建稲背速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(健稲背命)はやみかたま の - 父を継いで[[科野国造]]となっ/はやかめま-<ref name="keizuruien"/>。[[他田氏]][[金刺氏]]の祖速甕玉命<ref name="keizu"/>
** 子:'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(はやみかたま の -/はやかめたま-<ref name="ruien"/>、速甕玉命<ref name="keizu"/>) -: [[国造神社]]祭神。『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」によれば、[[崇神天皇]](第10代天皇)の時代に初代[[阿蘇国造]]に任命されたという。[[阿蘇氏]]の祖<ref name="keizu"/>。
また、この年に景行天皇は*** 孫:'''[[健渟美命]]'''<ref name="seishi1">『[[#seishi1|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』。</ref>{{Refnest|group="注"|惟人命<ref name="seishi1"/>、惟人之命、惟人君命<ref name="kou"/>、惟人<ref name="ruien"/>、彦御子<ref name="seishi1"/>、八井耳玉命<ref name="seishi1"/>。速瓶玉命([[#神格化|前述]])の子。現在は[[阿蘇神社]]の五宮<ref name="ruien"/>、[[甲佐神社]]祭神。)に[[勅]]して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう<ref name="gunshi"/>}}
***: [[阿蘇神社]]の五宮<ref name="ruien"/>および[[甲佐神社]]の祭神。健磐龍命の子ともいう。
* (生母未詳)
** 子:'''[[建稲背命]]'''<ref name="keizu"/>(健稲背命)
科野の領地は子の'''[[建稲背命]]'''<ref**: name="keizu"/>が継ぎ、父を継いで[[科野国造]]となった<ref name="keizu"/>。その子孫は[[他田氏]]、[[金刺氏]]となったの祖<ref name="keizu"/>。
 
== 系譜記録 ==
「草壁」という地名は、草を仮御所の屋根・壁としたことに由来するといい、のちに「草部」となった<ref name="gunshi"/>。
ここでは健磐龍命についての記録を史料別に示す。
 
=== 日本書紀 ===
健磐龍命は'''阿蘇都彦命'''(阿蘇都彦)と号し(前述)、草壁に居住したが、のちに阿蘇へうつり、一帯を統治した<ref name="gunshi"/>。「阿蘇都媛」・「阿蘇都彦」のように、[[ヒメ]]と[[ヒコ]]の二者(この場合は夫婦)がペアで統治を行う体制は[[ヒメヒコ制]]と呼ばれる。
なお、『[[日本書紀]]』には、阿蘇都彦について次のような記載がある。[[景行天皇]]18年6月16日に景行天皇(第12代天皇)は[[景行天皇#九州巡幸|九州巡幸]]の一環として阿蘇国に到ったが、その国の野原は広く遠く、人居は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや。」と言った。するとその時'''阿蘇都彦'''・'''[[阿蘇都媛]]'''の二神があり、たちまちに人になって天皇のもとにいたり、「吾二人在り。何ぞ人無らんや。」と言った。ゆえにその国をなづけて'''[[阿蘇国|阿蘇]]'''といったという。
 
これは阿蘇の地名の由来を説明する説話であるが、[[#系譜|前述]]のように崇神天皇の時代にはすでに阿蘇という地名は存在していた。
健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めたという<ref name="gunshi"/>。これは現在の[[阿蘇神社#矢村社・矢村神社|矢村社]]の地であるという<ref name="gunshi"/>。そうして定めた宮の地が、今の[[宮地町|宮地]]の地名の由来であるという<ref name="gunshi"/>。
 
==== 伝承延喜式 ====
[[延喜式神名帳]]には、[[肥後国]][[阿蘇郡]]の[[名神大社]]として「健磐龍命神社(たけいわたつ の みこと の -)」が記載され、現在は'''[[阿蘇神社]]'''一宮の祭神が健磐龍命である<ref name="ruien"/>。
健磐龍命の阿蘇開拓に関連して、阿蘇地方には次のような伝承がある。
 
この阿蘇神社の創始は、[[孝霊天皇]]の9年6月に、孝霊天皇(第7代天皇)'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(速甕玉命<ref name="keizu"/>、健磐龍命と阿蘇都媛命との間にうまれた子<ref name="ruien"/>、[[#系譜|述]])に[[勅]]して健磐龍命を神として祀らせたいい、これが'''[[阿蘇神社]]'''の創始とされる<ref name="gunshi"/>。またこの月の26日に勅して阿蘇宮を修造させた<ref name="gunshi"/>ともいう。
[[阿蘇カルデラ]]の内部の[[阿蘇谷]]・[[南郷谷]]はかつては[[湖]](「[[介鳥湖]]」と呼ばれた<ref name="gunshi"/>)であった。健磐龍命は[[阿蘇山]]へ至り、[[外輪山]]の上から目の前に広がる湖を眺め、その広大さに感心して、水をなくして田畑を造ろう、と考えた。そこで、外輪山の一部を蹴破ろうとしたが、一度目に挑戦したところはなかなか蹴破れなかった。それは、山が二重になっているからで、以後、その場所は「[[二重峠|二重(ふたえ)の峠]]」と呼ばれるようになった。別の場所で挑戦したら、今度は見事に蹴破ることに成功したが、そのはずみで健磐龍命はしりもちをついてしまい、「立てぬ」と叫び、以後、その場所は「[[立野]]」と呼ばれるようになった。また、蹴破ったところからは、湖水が一気に西の方に流れ出た。これは、山に隙間があったからで、「すきまがある」を約して「すがる」とし<ref name="gunshi"/>、以後「スガルが滝」と呼ばれるようになった。のちに、この際に数匹の鹿が流されてしまったことから漢字をあてて「[[数鹿流ヶ滝|数鹿流(すがる)ヶ滝]]」という表記とした。湖水が引くと、底から巨大な[[ナマズ]]が現れ、湖水をせき止めていたので、健磐龍命は刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れていったという。
 
また、阿蘇神社は景行天皇が阿蘇を訪れた時([[#日本書紀|前述]])に速瓶玉命([[#系譜|前述]])に命じて[[宮地町|宮地村]]に建てたものであるともいう。また、景行天皇18年に景行天皇は'''[[健渟美命]]'''([[#系譜|前述]])に[[勅]]して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう<ref name="gunshi"/>。
=== 神格化 ===
[[孝霊天皇]]の9年6月に、孝霊天皇(第7代天皇)は'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(速甕玉命<ref name="keizu"/>、健磐龍命と阿蘇都媛命との間にうまれた子<ref name="ruien"/>、[[#系譜|後述]])に[[勅]]して健磐龍命を神として祀らせたといい、これが'''[[阿蘇神社]]'''の創始とされる<ref name="gunshi"/>。またこの月の26日に勅して阿蘇宮を修造させた<ref name="gunshi"/>ともいう。
 
=== 科野統治と阿蘇国造本紀 ===
健磐龍『[[先代旧事本紀]]』の「[[国造本紀]]」によれば、建五百建命は[[崇神天皇]](第10代[[天皇]])の時代に阿蘇より初代'''[[科野国造]]にうつり、その地を統治したとされる。科野では健磐龍命は'''建五百建に任'''の名で知らる(前述)たという
 
『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」またこれよれば関連して、建五百建命は崇神天皇の時代に初代'''[[科野国造]]'''に任命されたという。また、[[科野大宮社]]を創建したという承がある。
 
科野国造の治所は[[小県郡]]にあった<ref name="seishi1"/>が、『[[和名類聚抄]]』によれば小県郡には「[[安宗郷]](あそ-)」という[[郷#律令制の郷|郷]]があったといい、「阿蘇(あそ)」と同音である。現在も[[上田市]]古安曽(こあそ)に[[安曽神社]]が存在する。
 
=== 結婚と阿蘇統治郡誌 ===
阿蘇都媛命を[[建御名方命]]の5世孫の[[会知早雄命]]の娘とする系図<ref name="sosyo"/>があり、その場合は阿蘇都媛命は科野出身となる。
以下に『[[#gunshi|阿蘇郡誌]]』による伝承を示す。
 
[[神武天皇]]76年に神武天皇(初代[[天皇]])は孫である健磐龍命に[[西海道|西海]]鎮撫の命をくだ[[火国|火の国]]に封じ、「[[九州]]の長官」として下向させ<ref name="gunshi"/><ref name="jingu"/>健磐龍命はこの年の[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]に[[阿蘇郡|阿蘇]]に封じたともいう<ref name="ruien"/>。健磐龍命はこの年の2月に[[山城国]][[宇治郷|宇治の郷]]あるいはから[[大和国阿蘇郡|阿蘇]]から<ref name="ruien"/>阿蘇に下向した<ref name="gunshi"/>。この途中[[宮崎郡|宮崎]]において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが[[宮崎神宮]]の創祀とされる<ref name="gunshi"/><ref name="jingu"/>。なお、のちのそこから[[阿蘇神社]]の東側にある[[大宮司草部村|草壁]]にうつり、'''[[阿蘇都姫]]'''健磐龍命の子孫)が[[宇治氏#系譜|前述]]なのは、健磐龍命の出発地が宇治である)をめとり'''阿蘇都彦'''と号した。そより阿蘇よるとう<ref name="ruien"/>たった
健磐龍命が科野にうつったのと前後して、阿蘇の領地を速瓶玉命(前述)が継承した。『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」によれば、速瓶玉命は崇神天皇の時代に初代[[阿蘇国造]]に任命されたという。その子孫は[[阿蘇氏]]となった<ref name="keizu"/>。
 
当時、[[阿蘇カルデラ]]の内部の[[阿蘇谷]]・[[南郷谷]]は[[湖]](「[[介鳥湖]]」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。外輪山を蹴破ろうとしたが、峠が二重になっているために破れなかった([[二重峠]])。2度目は山に隙間があったために成功し、湖水は西の方に流れ出た。「すきまがある」を約して「すがる」とし、以後この場所は[[数鹿流ヶ滝|スガルが滝]]と呼ばれるようになった。[[熊本市]]の小山と戸島は蹴破られた山の破片であり、[[菊陽町]]の津久礼は「つちくれ」の約で土塊が落ちたところであり、[[合志市]]の名は小石に由来するという。また、[[大津町]]の引の水も関係地名である。
=== 死去と墓所 ===
科野国造任命よりしばらくして健磐龍命は薨じた。107歳だったという<ref name="gunshi"/>。
 
科野こののち健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めた。これは現在'''[[森将軍塚古墳阿蘇神社#矢村社・矢村神社|矢村社]]'''をそ墓所とす地であ。そうして定めた宮の地、今の[[宮地町|宮地]]の地名の由来である<ref name="jiten"/>なお、現在のちに健磐龍命は残賊を平定し、阿蘇一帯を統治して、107歳で薨じた。[[阿蘇市]]の[[阿蘇神社]]の楼門前に神[[陵]]とされる場所があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都媛命比咩神の陵であるという<ref name="gunshi"/>
 
科野の領地は子の'''[[建稲背命]]'''<ref name="keizu"/>が継ぎ、父を継いで[[科野国造]]となった<ref name="keizu"/>。その子孫は[[他田氏]]、[[金刺氏]]となった<ref name="keizu"/>。
 
なお、『[[日本書紀]]』には次のような記載がある。[[景行天皇]]18年6月16日に景行天皇(第12代天皇)は[[景行天皇#九州巡幸|九州巡幸]]の一環として阿蘇国に到ったが、その国の野原は広く遠く、人居は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや。」と言った。するとその時'''阿蘇都彦'''・'''阿蘇都媛'''の二神があり、たちまちに人になって天皇のもとにいたり、「吾二人在り。何ぞ人無らんや。」と言った。ゆえにその国をなづけて'''[[阿蘇国|阿蘇]]'''といったという。
 
これは阿蘇の地名の由来を説明する説話であるが、前述のように崇神天皇の時代にはすでに阿蘇という地名は存在していた。またこの記事では阿蘇都彦・阿蘇都媛の二者が登場するが、人ではなく神として登場するので、この時の二神の生存を示すとは限らない。また仮にこのとき健磐龍命が生存していたとしても、阿蘇ではなく科野にいるはずである([[#科野統治と阿蘇|前述]])。
 
また、この時に速瓶玉命([[#神格化|前述]])に命じて[[宮地町|宮地村]]に[[阿蘇神社]]を建てたともいう。
 
また、この年に景行天皇は'''[[健渟美命]]'''<ref name="seishi1">『[[#seishi1|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』。</ref>(惟人命<ref name="seishi1"/>、惟人之命、惟人君命<ref name="kou"/>、惟人<ref name="ruien"/>、彦御子<ref name="seishi1"/>、八井耳玉命<ref name="seishi1"/>。速瓶玉命([[#神格化|前述]])の子。現在は[[阿蘇神社]]の五宮<ref name="ruien"/>、[[甲佐神社]]祭神。)に[[勅]]して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう<ref name="gunshi"/>。
 
== 系譜 ==
[[神武天皇]](初代[[天皇]])の第2[[皇子]]で[[綏靖天皇]](第2代天皇)の兄であり、天皇の位を弟に譲って[[神祇]]を奉典したという<ref>『[[日本書紀]]』。</ref>'''[[神八井耳命]]'''の第5子<ref name="gunshi"/><ref name="ruien"/>。ただし、『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」によれば、建五百建命は神八井耳命の孫であるという。また、神八井耳命の[[曽孫]]である[[敷桁彦命]]の子とする系図<ref name="keizu"/>もある。兄に[[武恵賀前命]]([[多氏]]の祖)、弟に[[建緒組命]]([[火国造]])がいる<ref name="keizu"/>。
 
* [[嫡妻]]<ref name="sosyo">『[[#sosyo|諏訪史料叢書. 巻28]]』。</ref>:'''[[阿蘇都媛命]]'''<ref name="ruien"/>(阿蘇都媛<ref name="syoki"/>(あそつひめ<ref name="kou"/>)){{Refnest|group="注"|阿蘇津媛<ref name="ruien"/>、阿蘇都姫<ref name="ruien"/>、阿蘇姫<ref name="ruien"/>、阿蘇比売神<ref name="sosyo"/>、阿蘇比咩命<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩神<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩<ref name="ruien"/>、比咩神<ref name="ruien"/>とも。}} - [[日子八井命|草部吉見神(国龍神)]]の娘<ref name="ruien"/>。ただし[[建御名方命]]の5世孫の[[会知早雄命]]の娘とする系図<ref name="sosyo"/>もある。また、健磐龍命の嫡妻を'''[[会知速比売]]'''とする系図もある<ref>『[[#seishi2|姓氏家系大辞典. 第2巻]]』。</ref>。
** 子:'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(はやみかたま の -/はやかめたま-<ref name="ruien"/>、速甕玉命<ref name="keizu"/>) - [[国造神社]]祭神。『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」によれば、[[崇神天皇]](第10代天皇)の時代に初代[[阿蘇国造]]に任命されたという。[[阿蘇氏]]の祖<ref name="keizu"/>。
* (生母未詳)
** 子:'''[[建稲背命]]'''<ref name="keizu"/>(健稲背命) - 父を継いで[[科野国造]]となった<ref name="keizu"/>。[[他田氏]]、[[金刺氏]]の祖<ref name="keizu"/>。
 
=== 誕生その他 ===
また、[[#死去と墓所|前述]]の健渟美命(健磐龍命の孫)を健磐龍命の子とする説がある。
科野国造任命よりしばらくして* 健磐龍命は薨じた。107歳「[[九州]]の長官」だったという<ref name="gunshijingu"/>。
* 神武天皇は神武天皇76年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]に健磐龍命を[[阿蘇郡|阿蘇]]に封じたという<ref name="ruien"/>。
* 健磐龍命は神武天皇76年2月に[[大和国]]から阿蘇に下向したという<ref name="ruien"/>。
* のちの[[阿蘇神社]]の[[大宮司]]家(健磐龍命の子孫)が[[宇治氏]]なのは、健磐龍命の出発地が[[宇治郷|宇治]]であることによるという<ref name="ruien"/>。
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[近藤敏喬]]|title=古代豪族系図集覧|year=1993|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4-490-20225-3|pages=8,92,343,432頁|chapter=|ref=keizu}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=熊本県教育会阿蘇郡支会|title=阿蘇郡誌|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980734/109|year=1926|publisher=熊本県教育会阿蘇郡支会|isbn=|pages=175,176,279,306・305-307,559-561,572,824頁|chapter=|ref=gunshi}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、109コマ目。
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[神宮司庁]]古事類苑出版事務所|title=古事類苑. 神祇部30|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897629/123|year=1913|publisher=神宮司庁|isbn=|pages=1637-1654頁|chapter=|ref=ruien}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、123コマ目。
* {{Cite book|和書|author=諏訪教育会|editor=|title=諏訪史料叢書. 巻28|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/45|year=1938|publisher=[[諏訪教育会]]|isbn=|page=73頁|chapter=|ref=sosyo}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、45コマ目。