「カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[ヴァイマル]]出身。彼が生まれた時に名付け親となったのは、父の友人[[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]であった。彼の名前にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだものである。[[1717年]]、家族と共に[[ケーテン]]に移り、[[1723年]]には父の[[トーマスカントル]]就任とともに[[ライプツィヒ]]に転居した。10歳のとき、父親がカントルを務めるトマス教会附属学校(トーマスシューレ)に入学。[[1731年]]に[[ライプツィヒ大学]]に進学した後、[[1734年]]に[[フランクフルト (オーダー)|フランクフルト・アン・デア・オーダー]]のヴィアドリーナ大学([[:de:Alma Mater Viadrina|Alma Mater Viadrina]])に転学し、[[1738年]]に[[法学]]で[[学位]]を取得するが、間もなく[[司法]]生としての行く手を断念し、音楽に献身しようと決心する。
それから数ヵ月後に、[[プロイセン王国]]の[[皇太子]]フリードリヒ(後の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]])の[[ノイルピーン|ルピーン]]
作曲家としての名声は、それぞれフリードリヒ大王と[[ヴュルテンベルク]]大公に献呈された、別々の2つのソナタ集によって打ち立てられた。[[1746年]]には王室楽団員の地位に昇り、それから22年の間、[[カール・ハインリヒ・グラウン]]や[[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]]、
ベルリン時代の代表作として、父親の影響を最も強くとどめた《[[マニフィカト]]》([[1749年]])のほか、《復活祭[[カンタータ]]》([[1756年]])、いくつかの《シンフォニア(交響曲)》や数々の協奏的作品、さらに3巻の[[歌曲]]集や、若干の世俗カンタータやその他の機会音楽を挙げることができる。
[[1767年]]に名付け親のテレマンが亡くなると、彼はフリードリヒ大王の制止を振り切り、[[1768年]]に[[ハンブルク]]へ転出。[[ヨハネウム学院]]の[[カントル (教会音楽家)|カントル]]職を継ぐとともに、テレマンが楽長をしていた楽団の後任として新たに楽長となった(一説には、フリードリヒ大王のもとでの演奏活動に嫌気がさしたためとも伝えられる)。この機に、鍵盤楽器の門人で王妹アマーリアより[[宮廷楽長]]の称号を授与されている。ハンブルクでは、ヨハーネウム寄宿学校のカントルも兼務し、ベルリン時代よりもいっそう[[宗教音楽]]に注意を寄せるようになった。ハンブルク到着後に[[オラトリオ]]《荒野のイスラエルびと {{lang|de|''Die Israeliten in der Wüste''
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、兄弟のなかでは誰よりも、父親バッハへの敬意と、[[バッハ家]]の音楽的・宗教的伝統への忠誠を、強く自覚し続けていたものの、いずれも夭折した二人の息子は、音楽家にならず、祖父と同じ名前を与えられた次男[[ヨハン・ゼバスティアン
長い生涯を通じて、カール・フィリップ・エマヌエルはクラヴィーア演奏の巨匠であり続け、チェンバロよりも、むしろ[[クラヴィコード]]と[[フォルテピアノ]]に愛着を示した。おのずとクラヴィーア曲が多くなり、200曲近い独奏曲が遺された。[[鍵盤楽曲]]における代表作として、ベルリン時代には「変奏される反復部つきの {{lang|de|''mit veränderten Reprisen
ちなみにバッハの息子たちの中で唯ひとり[[左利き]]であり、そのため[[弦楽器]]が不得手だったので、[[鍵盤楽器]]にひときわ愛着を示すことになったと言われている。
カタリーナ・ドロテーア、エリーザベト・ユリアーナ・フリーデリカ、ヨナンナ・カロリーナ、レギーナ・スザンナなどの姉妹の単身生活の経済的援助をしていたといわれている<ref>淡野弓子『バッハの秘密』pp.50-54、2013年、平凡新書。</ref>。
== 後世への遺産と音楽様式 ==
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