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アレクサンドロスの死後、[[バビロン会議]]でマケドニアの実権を握った[[ペルディッカス]]はアンティパトロスにマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロスと[[ロクサネ]]の子(後の[[アレクサンドロス4世]])の暫定的な[[後見人]]となった<ref>ユスティヌス, XIII. 2, 4</ref>。
 
[[紀元前322年]]、アンティパトロスはアレクサンドロスの死に乗じたアテナイ、[[アイトリア]]、そして[[テッサリア]]の反乱({{仮リンク|[[ラミア戦争|en|Lamian War}}]])に遭った。緒戦で反乱軍に敗れた彼は[[ラミア]]に包囲されたが、[[レオンナトス]]、クラテロスの助けを借りつつ、[[クランノンの戦い|クランノン]]で敵を破り、反乱を鎮圧した。
 
その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘との婚約を破棄し、オリュンピアスの娘と結婚したり、彼が帝国の全支配者になろうとしているとの知らせを受けるなどしたため、次第にアンティパトロスと他の将軍たちはペルディッカスと対立していき、アンティパトロスはクラテロス、[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]らと共に反ペルディッカス同盟を組み、戦争となった<ref>ibid, XIII. 6</ref>。