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222年9月、曹丕は孫権が孫登を人質に差出さないということを大義名分として呉に親征を開始した。曹丕は許昌から出撃し、他の諸将の軍も一斉に南下を開始した。11月には曹丕は宛城に入りこれを本営とし、曹休張遼・臧覇の軍を洞口にそれぞれ派遣した。

洞口の戦い
戦争洞口の戦い
年月日222年
場所:洞浦(現在の)
結果:孫権軍の勝利。
交戦勢力
孫権
指導者・指揮官
呂範
徐盛
全琮
賀斉<br吾粲>
曹休
張遼
臧覇
王凌
戦力
2~3万 10万くらい
損害
三国時代

これに対して孫権は呂範等の軍を洞口に派遣した。

洞口の戦い

222年11月、曹休と対峙していた呂範の水軍は突風とそれを機と読んだ曹休の攻撃により壊滅的な損害を受けた。その後、臧覇が快速船500艘と1万人の兵を率いて、呉軍を襲撃し大勝したが、呉の全琮・徐盛は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取った、呉軍が曹休と張遼を打ち破った[1]、不利を転じて勝利となす。

戦後

223年3月、魏軍は総退却した。この戦いにより呉と魏の友好関係は切れた。また孫権は戦中に鄭泉を使者として蜀に派遣し、蜀との同盟関係を回復させ、呉とが手を結び魏に対抗するという三国時代の基本的な構図が成立することとなった。

脚注

  1. ^ 『建康実録』