「クローヴィス1世 (フランク王)」の版間の差分

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[[496年]]から[[497年]]にかけて、{{仮リンク|トルビアックの戦い|en|Battle of Tolbiac|}}で[[アラマンニ人]]に勝利した後、王妃クロティルドの薦めで[[カトリック教会|カトリック]]に改宗した。[[東ローマ帝国]]の人物との接触の長いフランク族の王クロヴィスは[[キリスト教]][[アタナシオス派|ニカイア派]]を信仰していた<ref>R.ミュソ=グラール、p.81。</ref>。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方[[西ゴート族]]や[[ヴァンダル族]]はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派は[[アリウス派]]であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クロヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ系市民との絆を強化するものであった。496年から502年までの間に改宗する洗礼をおこなった。史料では場所が明らかになっていませんが、[[ランスのヒンクマル]] 大司教が9世紀に強く[[ランス]]だったとする解釈を強調して、それでランスが後にフランス王様たちの聖別儀式を祝うところとなった。
 
[[500年]]には[[ディジョン]]でブルグンド王国と戦い、[[507年]]には[[アルモリカ人]]の支援を得て{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé|}}<!--トゥールーズ近郊ではありません-->で[[西ゴート王国|西ゴート]]王[[アラリック2世]]を破った。この勝利で勢いをつけたクロヴィスはそのまま西ゴート王国の首都[[トゥールーズ]]まで進軍し、[[アキテーヌ]]の大部分を獲得した<ref>フランス史、p.137-138。</ref>。フランク王国の領土は[[北海]]から[[ピレネー山脈]]まで大きく拡張され、南フランスを支配していた西ゴート王国は[[イベリア半島]]に押し込められた。

この遠征の後の[[508年]]、クロヴィスは東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]からローマ帝国名誉[[執政官]]に任命された<ref>フランス史、p.138。</ref><ref>R.ミュソ=グラール、p.112。</ref>。トゥール郊外の教会で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いたクロヴィスは、住民の歓呼に迎えられて町を行進した。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配が当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された<ref>Von Mathias Lohre “Die Erbens des Imperiums”, <i>P.M. History</i>, 09/2018, p. 32.</ref>。

[[508年]][[パリ]]に[[首都|都]]を定め、[[セーヌ川]]左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]])を築いた。その遺構は今も[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くに[[クロヴィス塔]]として残る。
 
クロヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。