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広島県府中市出口町にある仏教寺院
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2018年9月17日 (月) 03:41時点における版

慶照寺(けいしょうじ)は広島県府中市出口町にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。山号は光暁山。同じく府中町にある浄土真宗明浄寺の末寺。本尊は阿弥陀如来

概要

この寺は、府中市府中市出口町鴨田にあり、石州街道沿いに存在する。

江戸時代には石州街道の府中町の北側の入り口として重要な場所でもあり、

普段は一と六のつく日、月6回市が立つ場所でもあった。

現本堂は、1740年(元文五年)の築[1]、鐘楼門は1805年(文化二年)の築[2]

由来

1559年(永禄二年)、田坂教春により現在の府中市荒谷町の高倉に開創されたのが始まりである。

田坂規仲

田坂教春(孝春)は、出家前は田坂規仲と言い現在の三原市小坂町にあった稲村山城城主田坂義詮(善詮)の子供である、田坂家は応永年間に小早川春平によって下野国から招かれて代々沼田小早川家の家臣で家老職でを務める家柄であった。父親の田坂義詮の代に沼田小早川家の相続問題が起こり、竹原小早川家を継いでいた毛利元就の子供の小早川隆景を招き入れることに強く反対していた。このため小早川隆景が沼田小早川家を継いだ後に日名内玄心により暗殺、稲村山城も落城をした。その際に現在の尾道市御調町市の照源寺へと落ち延び、照源寺の知春の弟子となった[3]

移転

高倉にあった慶照寺は天正年間(1573年-1592年)に土生、さらに同村内の殿坂へと移転した。三世宗言の代になって出口の寺窪に移り、1740年(元文五年)七世知教の代に現在地出口町鴨田へと移転した[3]。 

  1. ^ 広島県の近世社寺建築 (1982年). 広島県文化財協会 
  2. ^ 山門外の由来書きによる
  3. ^ a b 広島県 (大正12年). 広島県史