「連合軍軍政期 (ドイツ)」の版間の差分

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=== 2つのドイツの誕生 ===
1949年5月、西側3か国の占領区域はドイツ連邦共和国([[西ドイツ]])として)が、また西側諸国に倣い、[[ソ連占領地域|ソ連占領区域]]は西側諸国倣い、1949年10月に[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)として)がそれぞれ設立された。西側においては1949年5月連邦共和国創設時に軍政府長官連合国高等弁務官と交代し、その権限は軍政府以上大使以下とされた。西ドイツが主権回復宣言を行った1955年5月5日、西側の占領は公式に終了、各国高等弁務官は各国大使に変更となった。
 
同様の状況は東ドイツにも発生した。10月10日ソ連軍政当局はソ連監督委員会と交代、1949年11月11日まで限定的統治権は与えられなかったものの、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)設立された。1953年3月の[[ヨシフ・スターリン]]の死後の5月28日、ソ連監督委員会は高等弁務官事務所に置き換えられた。1955年9月20日、東ドイツとソ連間で条約が結ばれると、高等弁務官事務所は撤廃され、主権全般が東ドイツに返された。また、1956年にはザールにおいて国民投票が行われて連邦共和国(西側)加入を選択、ザールは1957年1月1日にザールラント州として連邦共和国に加入することになった。
 
ただしなお、1955年の両ドイツへの主権全般の返還にもかかわらず、1990年に[[ドイツ再統一|統一ドイツ]]が誕生するまで完全な主権回復はなされなかった。事実上の「ドイツ国」と連合国との講和条約に相当する[[ドイツ最終規定条約]](俗に「2足す42+4条約」とも言われる)が1991年3月15日参加ての関係国によって批准締結されてはじめて完全な主権回復が成された。
 
その一方でまた、西ベルリン市は正式には西ドイツ領ではなく、公式には1990年10月のドイツ統一まで連合国の軍政下にあった。便宜上、初期に西側連合国が占領していた3区域は統合西ベルリンとなり、ソ連占領区域は東ベルリンとされたが、ベルリン市の東部(東ベルリン)について西側諸国がドイツ民主共和国を正式な国家として認めていない間にも、東ドイツの首都として位置しされていた。
 
== 区域別の情勢 ==