「皇帝」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m 118.233.213.215 (会話) による版を 60.61.175.66 による版へ巻き戻し タグ: 巻き戻し |
||
57行目:
=== 日本の天皇あるいは皇帝 ===
{{see also|日本国皇帝}}
[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|right|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝
古代の日本は、中国の三皇の一つ「[[天皇]]」を、和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は[[天武天皇]]の時代とする説が有力である。「天皇」号の使用は、607年[[聖徳太子]]が[[隋]]の[[煬帝]]に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の[[白村江の戦い]]において唐・[[新羅]]連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
[[養老令]]天子条において、「[[天子]]」および「天皇」の称号とともに、「皇帝」という称号も規定されている<ref>『養老儀制令』第一条、「'''天子'''、祭祀に称する所。'''天皇'''、詔書に称する所。'''皇帝'''、華夷に称する所」と記される。</ref>。「華夷」に称するものとして規定されているが、「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。
天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に[[淳仁天皇
近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源である[[エンゲルベルト・ケンペル]]著の『[[日本誌]]』において、徳川
1854年の[[日米和親条約]]では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「{{en|the August Sovereign of Japan}}」としている。これは大清帝国皇帝を指す「{{en|the August Sovereign of Ta-Tsing Empire}}」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた{{sfn|岡本隆司|2011|pp=144}}。日本側ではこれを「日本君主」や「[[日本国大君|日本大君]]」と訳した。幕末に来日したヨーロッパ諸国外交官の記録によると天皇は「ミカド({{en|Mikado}})」「ダイリ({{en|Dairi}})」、徳川将軍は「タイクン({{en|Tycoon}})」と呼ばれていたという<ref name="世界大百科事典天皇">[[世界大百科事典]](平凡社)「天皇」の項目</ref><ref>英語の {{en|Tycoon}} はこの後意味が転じて「財界の大物・重鎮」を表す普通名詞の tycoon に変化した。日本語由来の単語でありながら日本の文化とはまったく関係ない意味を持つようにった稀な単語の一つである。</ref>。
133行目:
[[476年]]に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]にいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、[[6世紀]]の東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の時代には、[[イタリア]]や[[イベリア半島]]の一部を東ローマ帝国が征服した。
このため、西ヨーロッパ諸国や[[ローマ教皇]]は、[[コンスタンティノポリス]]にいる
しかし7世紀以降、[[東ローマ帝国]]は[[イスラム帝国]]や[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは[[聖像破壊運動|聖像破壊論争]]などの[[教義]]の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。
|