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m 船岡山=平安京測量基準説および船岡山=磐座説の論拠と疑義を明記し、記事の正確性を期した。
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== 歴史 ==
[[平安京]]の中軸線である[[朱雀大路]]の真北に位置しているところから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとされる。の説があり、また頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から[[磐座]](いわくら)として信仰されていた可能とする説がある<ref>一般に磐座となる岩は地上から佇立して独立が伺える指摘さのだが、船岡山のそは単に岩頭が露出しているにすぎない古来、船岡山また磐座に当然付帯される景勝地であった祭祀や伝承は文献に現れないその美観</ref>尊ば、いず、[[清少納言]]歴史家[[枕草子村井康彦]]』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡中では一番手として名前言説挙げている。一方では都を代表発端とする葬送地ものあり、[[吉田兼好]]も『[[徒然草]]』137段村井自身これらつい「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山学問的も、送る数多かる日はあ考察していない。したがってこど、送ぬ日の説今のところ学問的裏付けのない「俗説と述べての域を出な
古来、船岡山は景勝の地であった。その美観が尊ばれ、[[清少納言]]も『[[枕草子]]』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡の中では一番手として名前を挙げている。一方では都を代表する葬送地でもあり、[[吉田兼好]]も『[[徒然草]]』137段にて「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べている。
 
また、「平安京四神([[玄武]]、[[青龍]]、[[朱雀]]、[[白虎]])」の玄武(=高山)に当てる説もあるが、「高山」とするには低すぎるため、なお検討を要する<ref>「高山」という条件からは今なお冬には冠雪を見せる[[北山]]のほうがふさわしいが、平安京四神相応説自体、[[平家物語]]に初出する説だから、現時点で新都撰地の条件としての「玄武」を探索することにあまり意味がない。</ref>。先に述べたように、船岡山は平安初期から葬送の地となっている。この点からも船岡山が神聖であるべき四神のひとつであるとの説は疑わしい
 
[[保元]]元年([[1156年]])に行われた[[保元の乱]]の後、敗北した[[源為義]]とその子供たちがここで処刑されている。
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[[応仁]]元年([[1467年]])、[[応仁の乱]]の際に西軍を率いる[[備前国]][[守護]]の[[山名教之]]や[[丹後国]][[守護]]の[[一色義直]]らが船岡山に[[船岡山城]]を建築して立て籠もった(西軍の陣地となった船岡山を含む一帯はそれ以来「[[西陣]]」の名で呼ばれるようになる)。[[織田信長]]の死後[[豊臣秀吉]]が[[正親町天皇]]の勅許を受け、船岡山に[[天正寺]]という信長の廟を建設する予定であったが、[[石田三成]]の献策により頓挫する。が、一帯は[[江戸時代]]を通じて信長の霊地として保護された。
 
[[明治]]2年([[1869年]])、[[明治天皇]]の宣下により、翌明治3年([[1870年]])[[東京]]の[[天童藩]]知藩事[[織田信敏]]邸内と織田家の旧領地である[[山形県]][[天童市]]に[[建勲神社 (天童市)|建勲社]]が造営され、明治8年([[1875年]])に[[別格官幣社]]に列格した。しかし、改めて天正時代以来の因縁がある船岡山に神社を移すこととなり、明治13年([[1880年]])9月、社殿が竣工して東京より遷座し、建勲神社が創設される。[[昭和]]6年([[1931年]])には山全域が[[風致地区]]に指定され、「船岡山公園」として市民の憩いの場となるように整備される。しかし戦前まで田園風景が広がっていた一帯も戦後は開発の波に晒され、[[2000年代]]には船岡山斜面に高層マンションを建設する計画が持ち上がり建築計画の修正が行われたりした。
 
== 脚注 ==