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大学を中退し、[[1961年]]に[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]へ入団。1年目から先発で1試合に登板するが、[[1962年]]に肩を複雑[[脱臼]]するという大けがを負った。その後3シーズンは一軍登板がなかったが、[[1964年]]にアメリカ合衆国の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]・[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]傘下1Aフレズノの教育リーグに[[村上雅則]]・[[高橋博士]]らと共に野球留学で参加。帰国後、[[1965年]]に先発で3試合に登板すると、入団7年目となる[[1967年]][[8月18日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映]]戦でプロ初勝利を初完封で飾る。現役時代はスライダーを武器に通算41試合に登板。
 
[[1970年]]に引退後、[[1971年]]から[[打撃投手]]兼[[スコアラー]]に転向し<ref>[[産経新聞|サンケイ新聞]](大阪本社版)、[[1972年]][[4月14日]](金曜日)の10ページに掲載された『南海ナイター』([[大阪放送|ラジオ大阪]]の)全面広告に掲載された選手一覧では、他の投手と同じ扱いで掲載れていたため、登録だけ現役選手扱いだった可能性がある。</ref>、[[1973年]]に名前を省一郎に改名。[[1978年]]まで打撃投手を務め、その後もスコアラーとして南海ホークスの末期まで裏方でチームを支え続けた。スコアラー在職中の1988年6月17日に[[心筋梗塞]]のため死去。47歳没。
 
==エピソード==