「立憲民政党」の版間の差分

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m 床次竹次郎→床次竹二郎
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ところが[[ロンドン海軍軍縮条約]]における「[[統帥権干犯]]問題」をきっかけに、同年[[11月14日]]に濱口は[[東京駅]]において[[右翼]]によって狙撃された。濱口の回復が思わしくないという事で[[1931年]](昭和6年)4月4日に若槻禮次郎が総裁に就任して[[第2次若槻内閣]]が発足した。なお、濱口は同年[[8月26日]]に死去する。ところが同年[[9月18日]]には[[満州事変]]が勃発、同じ頃に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が発生した[[世界恐慌]]が[[日本の経済|日本経済]]にも深刻な影響を与えるようになった。
 
そこで、内務大臣であった安達謙蔵は政友会に復党していた床次竹郎らと組んで[[挙国一致内閣]]([[協力内閣運動]])を提唱するが、これが閣内分裂を招いたため、同年[[12月13日]]に若槻内閣は倒れ[[犬養内閣]]が成立する。[[1932年]](昭和7年)12月22日、安達とその支持者は民政党から脱党して新政党「[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]」を結党した。この影響で同年の[[第18回衆議院議員総選挙]]では結党以来最大の惨敗を喫した上に<ref name="昭和の政党284">『昭和の政党』284頁。</ref>、選挙中の同年2月に発生した[[血盟団事件]]で次期総裁の最有力候補だった前[[財務大臣|大蔵大臣]]の[[井上準之助]]が[[暗殺]]されてしまう<ref name="昭和の政党284"/>。
 
=== 中間内閣と軍部の台頭 ===