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== 歴史 ==
{{main|ギニアビサウの歴史|[[:en:History of Guinea-Bissau]]}}
 
=== 先ポルトガル期 ===
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=== ポルトガル植民地時代 ===
{{main|ポルトガル領ギニア}}
[[1446年]]にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言した。[[1482年]]、[[勅許会社]]の{{仮リンク|ギニア会社|en|Company of Guinea}}を設立。ポルトガルはギニアビサウの[[カシェウ]]を拠点に、後にアフリカ全土でそうしたようにこの地でも[[奴隷貿易]]を開始し、この地からも多くの[[黒人]][[奴隷]]が南北[[アメリカ大陸]]や[[ヨーロッパ]]に送られた。[[1630年]]にはポルトガルが総督府を設置。[[1671年]]、独占貿易会社{{仮リンク|カシェウ会社|pt|Companhia de Cacheu}}を設立。[[1687年]]に[[奴隷貿易]]の拠点として後に首都となる[[ビサウ]]が建設された。
 
[[1446年]]にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言した。[[1482年]]、[[勅許会社]]の{{仮リンク|ギニア会社|en|Company of Guinea}}を設立。
ポルトガルはギニアビサウの[[カシェウ]]を拠点に、後にアフリカ全土でそうしたようにこの地でも[[奴隷貿易]]を開始し、この地からも多くの[[黒人]][[奴隷]]が南北[[アメリカ大陸]]や[[ヨーロッパ]]に送られた。[[1630年]]にはポルトガルが総督府を設置。[[1671年]]、独占貿易会社{{仮リンク|カシェウ会社|pt|Companhia de Cacheu}}を設立。[[1687年]]に[[奴隷貿易]]の拠点として後に首都となる[[ビサウ]]が建設された。
 
19世紀後半まで行政上[[ポルトガル領ギニア]]は大西洋上の[[カーボベルデ]]植民地の一部であったが、1879年にギニアは単独の植民地となった。20世紀に入るとポルトガルは沿岸の[[ムスリム|イスラム教徒]]の民族の力を借り、内陸部の[[アニミズム|アニミスト]]の排疎運動を始めた。しかし、内陸部及び離島地域の植民地支配は混迷し、[[ビジャゴ諸島]]が完全に政府支配下になるのは1936年以降であった。[[第二次世界大戦]]中の1942年に、ビサウが正式にポルトガル領ギニアの首都と定められた。
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[[画像:Stamps of Germany (DDR) 1978, MiNr 2293.jpg|サムネイル|180px|[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]]の創設者、[[アミルカル・カブラル]]を描いた[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の切手]]
 
[[1956年]]にはアミルカル・カブラルが[[クレオール]]の[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]] (PAIGC) を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった。当初カブラルは穏健な独立運動を構想していたが、1959年8月3日にビサウで[[ストライキ]]を起こした港湾労働者が[[ポルトガル軍]]によって多数殺害された{{仮リンク|ピジギチ虐殺|en|Pidjiguiti Massacre}}以降は方針を変え、農村を根拠地にした武装[[ゲリラ]]闘争による独立を目指した。
 
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[[1963年]]にはPAIGCが{{仮リンク|ティテ (ギニアビサウ)|en|Tite (Guinea-Bissau)|label=ティテ}}のポルトガル軍基地を襲撃し、[[ギニアビサウ独立戦争]]が勃発した。[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]、[[ギニア]]などの支援を受けたPAIGCと、[[アメリカ合衆国]]の支援を受けたポルトガルの[[エスタード・ノーヴォ]]政権の間で[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]が続いた。
 
[[1973年]][[1月20日]]にPAIGCの指導者であるアミルカル・カブラルは[[ギニア]]の首都・[[コナクリ]]にてポルトガル[[秘密警察]]{{仮リンク|PIDE|en|PIDE}}によって暗殺されたが、アミルカルの弟の[[ルイス・カブラル]]が主導権を握って独立闘争は激化し、同年[[9月24日]]に領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町[[ボエ|マディナ・ド・ボエ]]において'''ギニアビサウ国'''([[1977年]]より'''ギニアビサウ共和国''')の独立を宣言した。独立は[[東側諸国]]や[[非同盟]]国家を中心に承認された。
、アミルカルの弟の[[ルイス・カブラル]]が主導権を握って独立闘争は激化し、同年[[9月24日]]に領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町[[ボエ|マディナ・ド・ボエ]]において'''ギニアビサウ国'''([[1977年]]より'''ギニアビサウ共和国''')の独立を宣言した。独立は[[東側諸国]]や[[非同盟]]国家を中心に承認された。
 
初代大統領には暗殺されたアミルカルの弟のルイス・カブラルが就任した。一方、ポルトガル本土でもギニアビサウでPAIGCと対峙した{{仮リンク|アントニオ・デ・スピノラ|en|António de Spínola}}将軍や{{仮リンク|オテロ・デ・カルヴァーリョ|en|Otelo Saraiva de Carvalho}}大尉をはじめとする軍人が中心となって設立されたポルトガル軍内の{{仮リンク|国軍運動|en|Movimento das Forças Armadas}}(MFA)により、[[1974年]][[4月25日]]に[[リスボン]]で[[カーネーション革命]]が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊して左派政権が誕生した。以降、新たに成立したポルトガルの革命政権と各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、ポルトガル領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形で交渉が進み、同年[[9月10日]]にポルトガル政府により正式に独立が承認された。
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=== ギニアビサウ内戦 ===
[[画像:Bissau - Abandoned tank.JPG|サムネイル|内戦により破壊された戦車]]
 
[[1998年]]のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーである{{仮リンク|アンスマネ・マネ|en|Ansumane Mané}}派の軍との間で激しい{{仮リンク|ギニアビサウ内戦|en|Bissau-Guinean Civil War}}が勃発した。内戦によって避難民30万人が[[ビサウ]]に流入するなど社会、経済は混乱し、[[1999年]][[5月7日]]に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。
 
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[[2005年]]の大統領選挙では亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利し、大統領に就任した。ヴィエイラの就任後、カルロス・ゴメス・ジュニオル首相が更迭され、[[アリスティデス・ゴメス]]が首相となった。[[2008年]]11月の議会選挙では多数派与党が勝利したが、選挙から一週間後には軍の不満分子による大統領官邸襲撃事件が発生した。この事件では反乱軍は撃退され、クーデターは未遂に終わったが、この事件によって大統領警護隊が組織された。
 
[[2009年]]1月に、ナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じた矢先に、ナワイ参謀長の暗殺未遂事件が起きた。3月1日には、首都ビサウの軍司令部が爆撃を受け、大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺される(2人続けての参謀長暗殺)。翌3月2日、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃し、ヴィエイラ大統領を暗殺した。政府軍は、国営ラジオで反乱軍が「孤立した勢力」であり、鎮圧寸前であると発表し、また、軍が憲法を守ることも保障した。ゴメス首相とルイス・サンカ国家安全保障顧問は、大統領が死亡したことを確認したが、詳細は発表しなかった。首都には軍部隊が配置され、民間ラジオ局を閉鎖した。{{いつ範囲|date=2013年2月|現在まで}}ビサウに、大きな混乱は無いなかったとされたが、一方BBCによると軍本部の建物が爆発で一部破壊されたと報じた。大統領代行には議会の[[ライムンド・ペレイラ]]議長が就任している。2009年の大統領選では、[[マラム・バカイ・サニャ]]元国民議会議長が大統領に選出された。
 
2010年4月1日には、[[アリスティデス・ゴメス|ゴメス]]首相が一時兵士らに拘束される事態となったが、首相は数時間後に解放された。