「パヴリク・モロゾフ」の版間の差分

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西シベリア地方のウラル山脈の東、森の中にある[[チュメニ]]県[[トボリスク]]郡ゲラシモフカ村で生まれ育つ。村は貧しかったが、結束が強く独立心旺盛で集団化に応じていなかった。父親のトロフィームは、元赤軍兵士で村のソヴィエト(評議会)議長の職にあり、隣村から農婦のタチアナを嫁に迎えたが、十年目で若い愛人をつくり家庭を捨て同棲しはじめる。村人は本妻に同情せず愛人に好意的だった。タチアナは精神を病み、長男のパヴリクが面倒を見ていた。そのためか学校ではアジテーターとなり、1931年秋、父親が流刑者に逃走用の偽造証明書を売っていたことを当局に密告した。村の学校で裁判は行なわれ、パヴリクは法廷で証言した。トロフィームは流刑を宣告され、[[白海・バルト海運河]]の労働収容所に送られ、3年間の労働の後、積極的な労働に対する勲章(орден за ударный труд)を授与され帰宅し、その後チュメニに移住した<ref>[http://www.pravda.ru/world/2003/5/82/337/13806_morozov.html «И Павлики кровавые в глазах…»] // Правда, 23.09.2003</ref>。
 
裁判後、自信を深めたパヴリクは9歳の弟フョードルを手下にして他の村人の密告を始めた。父親の親族は止めさせようとした。1932年9月2日、パヴリクとフョードルは森へベリーを採集するために派遣され、6日、彼らの刺殺体が発見された<ref name="donos1-neva">[http://www.unilib.neva.ru/dl/327/Theme_10/Literature/Drujnikov/index.html «Доносчик 001, или Вознесение Павлика Морозова»], Юрий Дружников</ref>. 。現在では、兄弟と対立していた村の少年たち、あるいは秘密警察などによる犯行という説もあるが、当時は最初から当局やマスコミは密告を恨んだ親族による報復殺人と解釈し、従兄弟、祖父、叔父たちが逮捕され処刑された。母親のタチアナは[[レーニン]]の未亡人[[ナデジダ・クルプスカヤ]]の計らいでクリミアに保養地を与えられそこで1983年まで生きた。
 
==死後==