「クリスチャン6世 (デンマーク王)」の版間の差分

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彼の中央の国内の法はいわゆる[[1733年]]の農奴法({{lang-da|stavnsbånd}})である。これは農民に出身地域にそのままでいることを強いる法律であり、これによって農民を地方貴族と軍の対象にすることができた。この法律の背景の考えは、もしかしたら、一定の数の農民と兵士を保証することだったかもしれないが、それは後世広くデンマークの農民支配の究極として指摘された。したがって、この法律は彼の評判を著しく傷つけた。この法律は[[1788年]]に廃止された。
 
クリスチャン王の敬虔主義の視点は、もちろん、彼の教会政策に大きな影響を与えた。表面上は王は勝利を収めていたが、牧師たちと多くの人々はひそかに王の路線に抵抗し、そして彼の死後には敬虔主義は公的な庇護を失った。それはその時代、[[ハンス・アドルフ・ボルソン]]ほか文筆家の多くの詩に多大な影響をあたえた。もう一つの王の努力の結果は[[1736年]]の[[秘蹟堅信|堅信礼]]の確証」(confirmation)の導入義務化であった。
 
敬虔主義と農奴法に加えて、クリスチャン6世と「活動の建築」は結びついていて、彼はもしかしたら18世紀に最も偉大な建設家だったかもしれない。彼の王妃もまた特筆すべき努力をした。彼の業績のなかでは[[クリスチャンスボー城]](1732年から翌年にかけて造営、1794年焼失、1803年から1828年にかけて再建)、[[シェラン島]]北部の{{仮リンク|ヒルスホルム宮殿|en|Hirschholm Palace}}(現在の{{仮リンク|ヒルスホルム|en|Hørsholm}}市庁。1737年から1739年に造営、1812年に破壊)、そして{{仮リンク|隠者の狩り小屋|en|Hermitage Hunting Lodge}}(1734年から1736年に造営。現存している)がある。それらの豪華な建造物は、権力を誇示する目的で建設されたが、臣民に対しては経済的負担となった。