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== 歴史 ==
志貴崎村は江戸初中期に開発された新田に由来する。平七新田は、承応年間(1652~1655年)稲生平七郎が開発を志し、[[1657年]](明暦3年)に完成、のちに'''平七村'''となる。'''伏見屋新田'''は伏見屋(三宅)又兵衛により[[1666年]](寛文6年)から元禄年代(1688~1704年)にかけて開発された。
'''伏見屋外新田'''は、伏見屋新田を水害から守る目的で、加田屋藤五郎らにより[[1746年]](延享3年)完成した。'''前浜新田'''は、天明年代(1781~1789年)に計画が立てられたが、入会地の調整を経て[[1826年]](文政9年)認可、翌[[1827年]](文政10年)に完成した。
* [[1876年]](明治9年) - 県の地租改正係より飛地組替の通知があり、[[棚尾町|棚尾村]]のうち中組の東浦(字北霞浦・字鴻島・字山ノ上道西・字山ノ上道東・字中霞浦・字南霞浦の半分)255戸が平七村に編入され、平七村のうち字雨池・字山畑(中山付近)が棚尾村に編入される。東浦と平七が隣接しているとはいえ、飛地交換が耕地の交換ではなく人家共に行われたことに対して、十分な説明が行われなかった。
* [[1876年]](明治9年) - 平七新田と[[棚尾町|棚尾村]]の東浦を合併し、平七村となる。
* [[1878年]](明治11年) - 前浜新田と前浜新田ノ内葭生場が合併し、前浜新田となる。
* [[1889年]](明治22年)10月1日 - 平七村、前浜新田、伏見屋新田、伏見屋外新田が合併し、志貴崎村が発足。