「バルカン半島」の版間の差分

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=== 19世紀と20世紀における概念の進化 ===
バルカンという用語は19世紀半ばまで一般的に地理学的文献では使用されていなかった。これは{{仮リンク|[[カール・リッター|en|Carl Ritter}}]]のような科学者たちが、バルカン山脈より南側だけが半島と考えることが可能であり、これは「ギリシャ半島」と改名されるだろうという注意喚起を行っていたためである。ツォイネに同意しない他の目立った地理学者たちには{{仮リンク|ヘルマン・ワーグナー (地理学者)|label=ヘルマン・ワーグナー|en|Hermann Wagner (geographer)}}、{{仮リンク|テオバルド・フィッシャー|en|テオバルト・フィッシャー}}、{{仮リンク|マリオン・ニュービアン|en|Marion Newbigin}}、{{仮リンク|[[アルブレヒト・ペンク|en|Albrecht Penck}}]]がおり、同時にオーストリアの外交官{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン|en|Johann Georg von Hahn}}は1869年にバルカン地域を「''Südostereuropäische Halbinsel''(南東ヨーロッパ半島)」という言葉で表した。バルカンという用語が一般的に受け入れられなかった別の理由には、[[東トラキア|ヨーロッパ・トルコ]]という用語が同一の領域を定義していたことがある。しかし、[[ベルリン会議]](1878年)の後には新たな用語が政治的に必要とされ、徐々にバルカンという用語が定着していった。だが、バルカンの地図上の北境はセルビアとモンテネグロにあり、ギリシャは含まれていなかった(バルカンとはヨーロッパのオスマン帝国支配下にある部分のみを描写するものであった)。また、ユーゴスラヴィアの地図にはクロアチアとボスニアが含まれていた。バルカン半島という用語はヨーロッパ・トルコの同義語であり、その政治的境界はかつてのオスマン帝国の属領のものであった<ref name="DaskalovMishkova2017"/><ref name="Altić11"/><ref name="VezenkovIWM06">{{cite journal |last=Vezenkov |first=Alexander |date=2006 |title=History against Geography: Should We Always Think of the Balkans As Part of Europe? |url=http://www.iwm.at/publications/5-junior-visiting-fellows-conferences/vol-xxi/alexander-vezenkov/ |journal=Junior Visiting Fellows' Conferences |volume=XXI |issue=4 |access-date=5 January 2018}}</ref>。
 
バルカンという言葉の使用法は19世紀末から20世紀の始まり頃に変化し、その用法はセルビアの地理学者たち(最も注目されるのは{{仮リンク|ヨヴァン・ツヴィイッチ|en|Jovan Cvijić}})によって受け入れられた<ref name="Somek15"/>。これは[[南スラヴ]]の領域全てに対する権利を主張する[[セルビア民族主義]]の政治的理由によるものであった。セルビア民族主義は南スラヴの人類学的、民族学的研究も通して様々な民族主義的・人種主義的理論を展開した<ref name="Somek15"/>。このような政策とユーゴスラヴィアの地図を通して、バルカンという用語は現代のような地理的領域を説明する用語として確立された<ref name="Altić11"/>。この用語は19世紀後半から[[第一次世界大戦]]後の[[ユーゴスラヴィア]](1918年当初は[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]])の建設にいたる政治的変動を受けて<ref name="Altić11"/>、初期の地理的意味合いから遠く離れた政治的・民族主義的意味を獲得した<ref name="DaskalovMishkova2017"/>。1991年6月から始まった[[ユーゴスラヴィア崩壊]]の後、「バルカン」という用語は(特にクロアチアとスロヴェニアにおいて)ネガティブな政治的意味合いを持つようになり、世界的にも武力衝突と領土の断片化を指して自然に使用されるようになった([[バルカニゼーション]]を参照)<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/>。
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「バルカン諸国(''the Balkans'')」はより一般的にこの地域を指す用語として用いられる。この言葉で呼ばれる地域は「バルカン半島」の領域を越えて広がっており、また半島自体の地理によって定義されていない。
 
バルカン諸国には通常[[アルバニア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]、[[ブルガリア]]、[[クロアチア]]、[[コソヴォ]]{{ref label|status|a|}}、[[北マケドニア]]、[[モンテネグロ]]、[[ルーマニア]]、[[セルビア]]、[[ギリシャ]]、そして[[スロヴェニア]]が含まれると言われている。これらの総面積は普通、666,700平方キロメートル(257,400平方マイル)とされており、総人口は59,297,000人(2002年推計)である<ref name="EB">{{cite web | url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/50325/Balkans | title=Balkans | publisher=[[Encyclopædia Britannica]] | access-date=2015-05-03 | quote=}}バルカンは通常、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、コソヴォ、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、そしてスロヴェニアから構成されるとみなされる。これらの国々はそれぞれ全域、もしくは一部がバルカン半島内に位置している。ギリシャ、およびトルコの一部も一般的にバルカン半島に定義づけられる地理的領域に位置している。文化的、歴史的用語によって定義される地域もあれば地理的に定義される地域もある。歴史学者と地理学者の間においてさえ異なる解釈がされるが...一般的に、バルカン諸国は北西をイタリアに、北をハンガリー、北と北東をモルドヴァとウクライナによって、南をギリシャとトルコ、または(領域の定義によって)エーゲ海によって区切られる...物理的、および人文地理的議論と地域の国々のそれぞれの歴史については、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、コソヴォ、マケドニア、モルドヴァ、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、そしてトルコを参照のこと。面積は257,400平方マイル(666,700平方キロメートル)、人口(2002年推計)は59,297,000人。</ref><ref>初期のバージョンの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、バルカン諸国はアルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、コソヴォ{{ref label|status|a|}}、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロヴェニア、そしてトルコの{{仮リンク|[[ヨーロッパ・トルコ|label=ヨーロッパ部|en|European Turkey}}]]の各国の領土で構成されている。同時に、トルコは非バルカン諸国であり、スロヴェニアとルーマニアの[[トランシルヴァニア]]部がバルカンに含まれるかは疑わしいと付記している</ref>。
 
イタリアはバルカン半島の極一部を保有しているが、「バルカン諸国」の範囲に含まれることはない。
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== 歴史と地政学的重要性 ==
[[File:Bgiusca Jirecek Line.jpg|thumb|{{仮リンク|イレチェク線|en|Jireček Line}}]]
[[File:Appolonia Albania.jpg|thumb|{{仮リンク|アポロニア (イリュリア)|label=アポロニア|en|Apollonia (Illyria)}}の遺跡。アルバニア、{{仮リンク|[[フィエル|en|Fier}}]]近郊。]]
[[File:Gamzigrad - Felix Romuliana (by Pudelek) 7.JPG|thumb|ローマ時代の宮殿{{仮リンク|フェリクス・ロムリアーナ|en|Felix Romuliana}}の遺跡。[[ユネスコ|UNESCO]]、セルビア。]]
{{Main|バルカンの歴史}}
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==== 冷戦 ====
[[冷戦]]の最中、バルカン諸国の大半は共産主義政権によって統治された。ギリシャは最初の冷戦の舞台となった。[[トルーマン・ドクトリン]]は1944年から1949年まで荒れ狂った{{仮リンク|[[ギリシャ内戦|en|Greek Civil War}}]]に対するアメリカの反応であった。隣接する諸国(アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア)の共産主義者の義勇兵によって支援された{{仮リンク|[[ギリシャ共産党|en|Communist Party of Greece}}]]によって解き放たれたこの内戦は、アメリカに非共産主義ギリシャ政府への大規模な支援を促した。この支援を受けてギリシャはパルチザンを撃破することに成功し、最終的にこの地域におけるただ一つの非共産主義国家として残存した。
しかしながら、共産主義政権下にあるにも関わらず、[[ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国|ユーゴスラヴィア]](1948年)と[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア]](1961年)はソヴィエト連邦から離反した。[[チトー|ヨシップ・ブロズ・チトー]](1892年-1980年)政権下のユーゴスラヴィアは最初に支援を受け、その後[[ブルガリア]]と合併するという案を拒否し、むしろ西側との緊密な関係を求め、率先してインドやエジプトと共に[[非同盟運動]]を主導することさえした。他方でアルバニアは[[中華人民共和国|共産主義中国]]に引き寄せあれ、後に[[孤立主義]]を採用した。
 
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|[[File:Southeast European Cooperation Process Map.svg|thumb|upright=1.25|[[南東欧協力プロセス]](SEECP)加盟諸国]] || [[File:SP for SEE members.png|thumb|upright=1.25|[[南東欧安定化協定]] {{legend|#ff7f40|加盟国}}{{legend|#00ff00|オブザーバー}} {{legend|#007fff|支援パートナー}}]]
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|[[File:SECI members.png|right|thumb|upright=1.25|{{仮リンク|南東欧協力イニシアティブ|en|Southeast European Cooperative Initiative}}(SECI){{legend|#ff7f40|加盟国}} {{legend|#00ff00|オブザーバー}}]] || [[File:BSEC members.png|right|thumb|upright=1.25|{{仮リンク|[[黒海経済協力機構|en|Black Sea Economic Cooperation}}]](BSEC){{legend|#ff7f40|加盟国}} {{legend|#00ff00|オブザーバー}}]]
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| [[ラムシュ・ハラディナイ]]
| {{仮リンク|ドゥシュコ・マルコビッチ|en|Duško Marković}}
| {{仮リンク|[[ゾラン・ザエフ|en|Zoran Zaev}}]]
| {{仮リンク|ヴィオリカ・ダンチラ|en|Viorica Dăncilă}}
| {{仮リンク|アナ・ブルナビッチ|en|Ana Brnabić}}
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! それらの地域の少数派宗教<ref name=religion />
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| {{仮リンク|[[クロアチアのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Croatia}}]](86%)
| {{仮リンク|クロアチアの正教会|en|Orthodoxy in Croatia}}(4%)、[[クロアチアのイスラム教|イスラーム]](1%)、その他・未申告(7%)
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