「李皇后 (北魏文成帝)」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[済陰郡]][[太守]]の李方叔の娘として生まれた。[[450年]]([[太平真君]]11年)、北魏の永昌王[[拓跋仁]]が寿春に侵入して、軍が李氏の家に入り、李氏の身柄を連行した。[[453年]]([[興安 (北魏)|興安]]2年)、拓跋仁が[[長安]]で処刑される美少女、李氏はその家人とともに[[大同市|平城]]の宮殿に入れら言われた。
 
文成帝にその美質を見出され[[450年]]([[太平真君]]11年)寵愛を受けた。北魏の永昌王[[拓跋弘(献文帝)を生み仁]]が寿春に侵入して貴人軍が李氏家に入り、李氏の身柄受け連行した。[[456453年]]([[安 (北魏)|安]]2年)、拓跋氏の旧制({{仮リンク|子貴母死|zh|子貴母死}})に従って仁が[[長安]]で処刑された。ると、李氏はその家人とともに[[大同市|平城]]は元皇后といい、金陵の宮殿入れられた。
 
文成帝にその美質を見出され、庫房で迫られ関係して妊娠した。拓跋弘(献文帝)を生み、貴人の位を受けた。[[456年]]([[太安 (北魏)|太安]]2年)、拓跋氏の旧制({{仮リンク|子貴母死|zh|子貴母死}})に従って処刑された。[[諡]]は元皇后といい、金陵に葬られた。
 
== 伝記資料 ==