「長尾晴景」の版間の差分

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[[越後国]]の[[守護代]]・[[長尾為景]]の子として生まれる。母は[[上条上杉家|上条上杉氏]]。幼くして主君の越後[[守護]]・[[上杉定実]]の[[猶子]]となる{{Efn|「[[日本随筆大成]]」に拠ると、定実が為景の姉妹を娶った際に、為景の嫡子・六郎(のちの晴景か)を猶子とする約定を取り交わしたと云われる。}}。定実の娘を娶ると共に[[偏諱]]を受け「'''定景'''」(さだかげ)と名乗る。のちに12代将軍・[[足利義晴]]から偏諱を与えられ「'''晴景'''」(はるかげ)に改名。[[天文 (元号)|天文]]9年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]([[1540年]][[9月13日]])に父・為景の隠居により、家督を譲られて{{Efn|上杉家文書(『新潟県史』資料編一、109号文書)。なお同文書は[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])作成と見られ家督移譲もこの時とされることが多いが、同書における為景の署名形式や、天文9年9月以降に晴景による発給文書が確認され、同月に晴景に対して敵追討の[[綸旨]]が発給されていること、更にこれ以降為景発給文書が確認できないことから、家督交代は天文9年だと考えられる{{Sfn|前島|2015|pp=46-47}}。}}。[[春日山城]]主となると共に越後守護代を補任された。
 
父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の[[上杉定実]]の[[伊達氏]]から[[伊達実元|伊達時宗丸]]を迎えるかの[[養子縁組]]問題([[天文の乱]])で越後国内が乱れた際に[[中条氏]]らを抑えることはできなかった。伊達氏の内紛に助けられ守護越後上杉家の復権は阻止したものの、[[黒田秀忠]]などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。
 
=== 実弟・景虎の台頭 ===