「鄧小平」の版間の差分

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鄧小平は、毛沢東の指揮した[[大躍進政策]]の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の[[劉少奇]]とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、[[文化大革命]]の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第二の[[走資派]]」と批判されて[[権力]]を失うことになる。
 
[[1968年]]には全役職を追われ、さらに翌年、[[江西省]][[南昌]]に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。
 
[[1973年]]3月、[[周恩来]]の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって[[中国共産党中央委員会副主席|党中央委員会副主席]]、[[中国共産党中央軍事委員会|中央軍事委員会]]副主席、[[中国人民解放軍]]総参謀長となり、[[中国共産党中央政治局|政治局]]を統括。[[1974年]]4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、[[新日本製鐵]](新日鉄)などから技術導入を図る。[[1975年]]1月、[[国務院常務副総理]](第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。