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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]に際しても、[[広島城]]の留守居役を務めるなどしている。毛利氏の防長移封後は旧所領の六ヶ国返租問題の解決に取り組み、その解決に導いた。また、[[長州藩]]の重職の[[当職]]になったのも元嘉が最初である。
 
慶長6年([[1601年]])[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]に兄の正勝が死去した。正勝には嗣子がいなかったため、嘉の嫡男である[[佐世元量|元量]]が佐世氏の家督と正勝の知行300石を相続した。慶長8年([[1603年]])[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]に輝元から「[[長門国#武家官位としての長門守|長門守]]」の[[受領名]]を与えられ、慶長18年([[1613年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]には2633石余の知行を与えられた<ref>内訳は、[[周防国]][[吉敷郡]][[嘉川駅|賀川庄]]1247石6斗余、[[長門国]][[厚狭郡|厚東郡]][[小野村 (山口県厚狭郡)|小野村]]827石3斗余、長門国[[美祢郡]][[共和村 (山口県)|嘉万郷]]531石1斗余、長門国[[阿武郡]][[篠生村|篠目村]]26石9斗余。</ref>。また一国一城令で廃城になるまで周防山口高嶺城の城番として務めた。
 
隠居に際しては子の元量に2000石の知行を譲り渡し、[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]に死去した。享年75。