「大政翼賛会」の版間の差分

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この対立は設立過程では充分に解消されず、[[第3次近衛内閣]]下の[[1940年]](昭和15年)[[10月12日]]に挙行された大政翼賛会の発会式{{efn|この日は近衛文麿の[[誕生日]]でもあった。}}当日になっても、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類がまとまらない事態となった。首相であり大政翼賛会総裁の近衛文麿は、「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」とその場を乗り切った。ただ革新派の失望は深く、後藤隆之助は「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧し、[[中野正剛]]は肩をすぼめて頭を垂れ、がっかりした様子だったという<ref>酒井三郎『昭和研究会』218ページ。</ref>。
 
さらに翼賛会への補助金交付をめぐり契機として「大政翼賛会違憲論」が収まらず、議論が続いた{{efn|翼賛会は国からの補助金により運営されることになっていた。}}。1941年(昭和16年)1月に開かれた第76回[[帝国議会]]および[[2月6日]]の貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題があることを事実上認めた。続いて、もともと政治結社としての大政翼賛会には反対していた[[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[平沼騏一郎]](元首相)も[[治安警察法]]上の政事結社ではなく公事結社であり、「衛生組合の如きもの」と答弁した{{efn|平沼は観念右翼との繋がりが強かった。}}。この認定を契機もなって政治活動が禁じられ、衆院唯一の会派「衆議院倶楽部」は解散。所属衆院議員全員が無所属となる異常事態となった。
 
同年[[4月1日]]、革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛側近の有馬頼寧事務総長・後藤隆之助組織局長らが辞任(第1次改組)、翌年(1942年6月)には[[岸田國士|岸田国士]]文化部長らが去った(第2次改組)。第1次改組後、新設された副総裁に国務大臣の[[柳川平助]]、組織局長には[[内務省 (日本)|内務省]]出身の[[挟間茂]]が就任し、次第にその性格は内務省の[[官僚]]や[[日本の警察|警察]]官僚に牛耳られて、政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに変質していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を[[都道府県知事|道府県知事]]がそれぞれ兼任することとなった。