「大政翼賛会」の版間の差分

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[[近衛文麿]]を中心として、国家体制の刷新を求める[[革新]]派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。[[1938年]](昭和13年)の[[国家総動員法]]が[[衆議院]]内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には[[有馬頼寧]]・[[大谷尊由]]らが近衛を[[党首]]とした新党を設立して解散総選挙を実施することを検討したものの、[[大日本帝国憲法]]下の[[戦前]]期[[日本の政治]]において二大ブロック制を構成し、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた[[立憲政友会]](政友会)・[[立憲民政党]](民政党)が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が希薄になったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。
 
[[1939年]](昭和14年)[[1月5日]]、[[第1次近衛内閣]]総辞職による近衛の総理首相辞任後、同年[[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]により[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、国際情勢の緊迫化にともなって日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする「[[新体制運動]]」が盛り上がり、その盟主として名門の出であり人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。[[穏健な多党制]]を構成し、[[社会大衆党]]を中心とした既成政党側でも近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。民政党総裁[[町田忠治]]と政友会正統派の[[鳩山一郎]](戦後に首相歴任)が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では[[永井柳太郎]]が「解党論」を唱え、「政友会正統派」の総裁[[久原房之助]]も「親英米派」の[[米内光政]]([[海軍大将]]・前[[海軍大臣]])を首班とし新体制運動に消極的な[[米内内閣]]の[[倒閣]]に参加して近衛の首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)共に一気に解党へと向かうことになった。[[右翼]]政党の[[東方会]]も解党し、思想団体「振東社」となった。
 
近衛も米内内閣総辞職後の[[第2次近衛内閣]]成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる「一国一党組織」の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった[[後藤隆之助]]が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体「[[昭和研究会]]」が「[[東亜協同体論]]」や「新体制運動促進」などをうたっ提唱していた。
 
構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は[[内閣総理大臣]]が総裁に就任した。中央本部事務局の下に下部組織として[[都道府県|道府県]]支部、[[都市|大都市]]支部、[[市町村|市区町村]]支部、[[町内会]]、部落会などが設置され。本部は接収した[[東京會舘]]に設置された。
 
[[1940年]](昭和15年)、結社を禁止されていた[[勤労国民党]]や[[立憲養正会]]などを除く[[保守政党]]から非合法の[[日本共産党]]を除く[[無産政党]]まで全ての[[政党]]が自発的に解散し「'''大政翼賛会'''」に合流した。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって[[1940年]](昭和15年)[[11月19日]]に解散した。[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]]には[[第3次近衛内閣]]が解散し総辞職による近衛の首相辞任後、[[東條内閣]]([[東條英機]]総裁兼首相、陸相兼任・[[陸軍大将]])が成立した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し(非公選の上院であった[[貴族院 (日本)|貴族院]]では元々政党は存在せず[[院内会派]]が政党的存在であった)、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である[[翼賛議員同盟]]などが政治活動を行った。これは、「'''勝ち馬に乗り遅れるな'''」という言い回しで知られるが、解散した各政党や[[内務省 (日本)|内務省]]なども大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、「一国一党論者」の目指したものとは大きく異なっていた。
 
[[ファイル:Announcement ceremony of Taisei-yokusan no Uta.JPG|thumb|「[[大政翼賛の歌]]」発表の式典。1940年12月16日]]