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[[内閣総理大臣]]が総裁に就任した。中央本部事務局の下に下部組織として[[都道府県|道府県]]支部、[[都市|大都市]]支部、[[市町村|市区町村]]支部、[[町内会]]、部落会などが設置された。本部は接収した[[東京會舘]]に設置された。
 
[[1940年]](昭和15年)、結社を禁止されていた[[勤労国民党]]や[[立憲養正会]]などを除く[[保守政党]]から非合法の[[日本共産党]]を除く[[無産政党]]まで全ての[[政党]]が自発的に解散し「'''大政翼賛会'''」に合流した。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって[[1940年]](昭和15年)[[11月19日]]に解散した。[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]]には[[第3次近衛内閣]]総辞職による近衛の首相辞任後、[[東條内閣]]([[東條英機]]総裁兼首相、陸相兼任・[[陸軍大将]])が成立した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し(非公選の上院であった[[貴族院 (日本)|貴族院]]では元々政党は存在せず[[院内会派]]が政党的存在であった)、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である[[翼賛議員同盟]]などが政治活動を行った。これは、「'''勝ち馬に乗り遅れるな'''」という言い回しで知られるが、解散した各政党や[[内務省 (日本)|内務省]]なども大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、「一国一党論者」の目指したものとは大きく異なっていた。
 
[[ファイル:Announcement ceremony of Taisei-yokusan no Uta.JPG|thumb|「[[大政翼賛の歌]]」発表の式典。1940年12月16日]]