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== 被害 ==
190万人が被災、10万5,000あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては[[全壊]]が10万9千余,000棟、[[全焼]]が21万2千余,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源[[断層]]のある神奈川県内で、[[振動]]による建物の倒壊のほか、液状化による[[地盤沈下]]、[[崖崩れ]]、沿岸部では[[津波]]による被害が発生した。[[東京朝日新聞]]、[[読売新聞]]、[[国民新聞]]など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った[[東京日々新聞]]の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「[[日本橋区|日本橋]]、[[京橋区|京橋]]、[[下谷区|下谷]]、[[浅草区|浅草]]、[[本所区|本所]]、[[深川区|深川]]、[[神田区|神田]]殆んど全滅死傷十数万」「[[電信]]、[[電話]]、[[電車]]、[[瓦斯]]、[[山手線]]全部途絶」といった凄惨なものがられた。同3日付では「[[横浜市]]は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。
[[File:Desolation of Nihonbashi and Kanda after Kanto Earthquake.jpg|thumb|left|700px|京橋の[[相互館110タワー|第一相互ビルヂング]]屋上より見た日本橋および神田方面の惨状]]
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right; white-space:nowrap; line-height:1.25em; margin-right:0px"
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*非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。
*津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人あまりが行方不明。関東大震災では建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で、津波の全体像が明確になっていなかった。津波の高さは鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子鎌倉藤沢の沿岸では5mから7mの高さの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記大正鎌倉餘話で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が由比ヶ浜滞留所にあったと書いている<ref>[http://www.histeq.jp/kaishi_28/HE28_071_084_Mannnen.pdf 神奈川県逗子市,鎌倉市,藤沢市における 1923 年大正関東地震による津波]</ref>。静岡県伊東市宇佐美、旭光山行蓮寺には、[http://izugeopark.org/maps/area-ito/usami/gyorenji/関東大震災つなみ浸水地点碑]が現存している。
 
この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]が所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:[[ヨコシネ ディー アイ エー]])の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および[[横浜市中央図書館]]に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない<ref>[http://committees.jsce.or.jp/avc/system/files/jsce2014cs_avc_sakamoto_final.pdf 関東大震災記録映像「横浜大震火災惨状」について] - 土木学会</ref>。
=== 人的被害 ===
[[File:Tokyo Station police box The Great Kanto Earthquake of 1923.jpg|right|thumb|220px|震災直後、尋ね人のビラが貼られた[[東京駅]]警備巡査派出所(1968年解体、1972年[[博物館明治村]]に移築)]]
2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年になり[[武村雅之]]らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、[[理科年表]]では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている<ref>[http://www.kajima.co.jp/news/press/200509/9a1fo-j.htm 鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂]</ref>。
 
地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。[[津波]]の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と[[房総半島]]沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う[[土石流]]による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡[[片浦村]]では[[#鉄道事故|鉄道事故]]で100人以上の死者、また土石流で数100名の犠牲者を出した。
 
====関東大震災により死去した著名人====
*[[寛子女王|寛子女王(閑院宮載仁親王第四王女)]]- [[小田原市|小田原]]・[[閑院宮]]御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊<!-- 宮号が付くのは当主である宮さま本人のみ -->
*[[師正王|師正王(東久邇宮稔彦王第二王子)]]- 避暑先の[[藤沢市|藤沢]]にある別荘が倒壊
*[[武彦王妃佐紀子女王|佐紀子女王(山階宮武彦王妃)]]- [[鎌倉市|鎌倉]]の山階宮別邸が倒壊
*[[松岡康毅]]([[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]・[[日本大学]]総長)- [[葉山町|葉山]]の別邸が倒壊
*[[園田孝吉]](実業家・[[男爵]])
*[[磯部四郎]](政治家・法学者・弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死
*[[厨川白村]](英文学者・評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去
*[[辻村伊助]](園芸家・登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる
*[[富田木歩]](俳人)- [[向島 (墨田区)|向島]]の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死
*[[麗々亭柳橋 (5代目)|五代目麗々亭柳橋]](落語家)
*[[ウィリアム・ヘーグ (外交官)|ウィリアム・ヘーグ]]([[イギリス]]外交官・草創期の[[サッカー]]振興に関与)- 勤務先の横浜の領事館が倒壊
*[[ジェニー・カイパー]]([[フェリス女学院中学校・高等学校|フェリス和英女学校]]校長)
*[[伊東荘次郎]]([[新派]]の俳優、元[[落語家]]の[[古今亭志ん橋]])- 諸説あり。
*[[村岡斎]](日本の印刷業者・上記の村岡敬三の実弟)- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名とともに犠牲となる
*[[當り矢信太郎]](元[[力士]]) - 死没地は不明。<!--また最期の様子も明らかにされていない--><!--諄々自明(そもそも死没地が不明ならば当然最期の様子も分かるはずがありません)-->
*[[梅垣直治郎]](元力士)- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。
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*[[山田天心]]
*[[五明楼国輔]](落語家)- 諸説あり。
*初代[[吉田久菊]](浪曲)- 横浜寿亭に出演中梁の下敷きとなって死亡。
 
====関東大震災犠牲者の慰霊施設====
*[[東京都慰霊堂]](旧震災記念堂)身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納めその死者の霊も合祀している。
*[[「大正拾二年九月帝都震災殃死(おうし)者之霊供養碑」]] 東京大田区の[[池上本門寺]]境内。
[[File:Nebukawa Station earthquake passenger car left.jpg|thumb|right|220px|[[根府川駅]]から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車]]
=== 鉄道事故 ===
{{Main|根府川駅列車転落事故}}
[[神奈川県]][[足柄下郡]][[片浦村]](現[[小田原市]]の一部)の[[根府川駅]]ではそのときちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。
=== 火災 ===
[[File:Robert L. Capp Great Kantō earthquake 7.jpg|thumb|right|220px|震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体]]
[[File:Gigantic cumulonimbus in the sky over Tokyo right after the Great Kanto Eartquake.jpg|thumb|right|220px|震災直後の火災により東京で発生した巨大な[[積乱雲]]]]
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の[[火災]]が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、[[工藤美代子]]が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、[[火薬]]類は保管していない)等、など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している<ref name="kudoh">[[工藤美代子]]「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」[[産経新聞出版]]</ref>。加えて[[能登半島]]付近に位置していた[[台風]]により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の[[天気図]]で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、[[本所区]]本所横網町(現在の[[墨田区]][[横網]])の陸軍本所被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]。ほか、現在の[[墨田区立両国中学校]]や[[日本大学第一中学校・高等学校]]などもこの場所に含まれる<ref group="注釈">陸軍本所被服廠跡地の面積が[[東京ドーム]]の1.5倍であるため。</ref>)で起こった[[火災旋風]]を引き起こしながら<ref>[https://doi.org/10.5026/jgeography.84.4_204 相馬清二:被服廠跡に生じた火災旋風の研究]地學雜誌 Vol.84 (1975) No.4 P204-217, {{DOI|10.5026/jgeography.84.4_204}}</ref>広まり、旧東京市の約43%を焼失し<ref>[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.55.577 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について] 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, {{DOI|10.11188/seisankenkyu.55.577}}</ref>鎮火したのは40時間以上経過した2日後の[[9月3日]]10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万53855,385人のうち、火災が9万17811,781人を占めた)ともいわれている<ref>[http://www.asahi.com/special/saigaishi/1923shinsai/ 関東大震災 学ぶべき教訓] 朝日新聞DIGITAL</ref>。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた[[市川市|市川]]まで吹き飛ばされた人もあった<ref>{{Cite book|和書|author=[[竹久夢二]]|author2=[[川村花菱]]|author3=[[山村耕花]]|title=夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ|origdate=1923|date=2003-9-1|publisher=クレス出版|id={{全国書誌番号|20469876}}|isbn=4877331956|page=66}}</ref>。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は[[東京都復興記念館]]に収蔵され展示されている。
<gallery>
Great Kanto Earthquake9.jpg.JPG|大日本麦酒吾妻橋工場内鉄柱
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=== 建物の倒壊 ===
[[File:Ryounkaku.jpg|thumb|right|180px|半壊した[[凌雲閣]]]]
東京市内の建造物の被害としては、[[凌雲閣]](浅草十二階)が大破<ref>[https://www.kajima.co.jp/tech/seismic/higai/030608.html 小破・中破・大破とは] 鹿島建設 日本建築学会「1978年宮城県沖地震被害調査報告」</ref><ref>岡田成幸、高井伸雄、[https://doi.org/10.3130/aijs.64.65_5 地震被害調査のための建物分類と破壊パターン] 日本建築学会構造系論文集 64巻 (1999) 524号 p.65-72, {{doi|10.3130/aijs.64.65_5}}</ref><ref>高井伸雄、岡田成幸、[https://doi.org/10.3130/aijs.66.67_4 地震被害調査のための鉄筋コンクリート造建物の破壊パターン分類] 日本建築学会構造系論文集 66巻 (2001) 549号 p.67-74, {{doi|10.3130/aijs.66.67_4}}</ref>、建設中だった[[丸の内]]の[[内外ビルディング]]が崩壊し作業員300名が圧死した。また[[大蔵省]]・[[文部省]]・[[内務省 (日本)|内務省]]・[[外務省]]・[[警視庁 (内務省)|警視庁]]など官公庁の建物や、[[東京大学|東京帝大]]、[[帝国劇場]]、[[三越|日本橋三越本店]]などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。[[神田古書店街|神田神保町]]や[[東京大学総合図書館|帝大図書館]]、[[松廼舎文庫]]、[[大倉集古館]]も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。
 
震源に近かった[[横浜市]]では官公庁や[[ホテルニューグランド|グランドホテル]]、[[オリエンタルパレスホテル]](現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県[[房総]]地域の被害も激しく、特に[[館山市|北条町]]では[[古川銀行]]・[[房州銀行]](ともに現在の[[千葉銀行]]の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場などを含むすべての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。
 
なお地震後も[[気象観測]]を続けた中央気象台(現在の[[気象庁]]、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時ごろから異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している<ref>[[藤原咲平]]編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行</ref>。この頃、ころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った<ref name="jgeography.108.4_440">[https://doi.org/10.5026/jgeography.108.4_440 武村雅之:1923年関東地震の本震直後の2つの大規模余震 強震動と震源位置] 地學雜誌 Vol.108 (1999) No.4 P440-457</ref>。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
 
=== 首都機能の麻痺 ===
震災当時、通信・報道手段としては[[電報]]と新聞がおもなものだった([[ラジオ]]放送は実用化前で<ref group="注釈">日本におけるラジオ放送開始は1924年(大正13年)([[ラジオ#日本初のラジオ放送]])。</ref>、[[電話]]も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により[[活字]]ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。[[東京日日新聞]](現在の[[毎日新聞]]の前身)・[[報知新聞]]・[[都新聞]]は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。
 
[[郵便]]制度も同様だった。普通[[切手]]や[[はがき]]、そして[[印紙]]も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の[[郵便局]]の在庫が逼迫することが予想されたため、[[糊]]や[[目打]]なしの[[震災切手]]と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社([[精版印刷]]・大阪、[[秀英舎]]・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。
 
さらに、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの[[昭和天皇]])と良子女王(のちの[[香淳皇后]])との[[結婚式]]の[[記念切手]]「[[東宮御婚儀不発行記念切手|東宮御婚儀]]」4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本の委任統治領だった[[南洋庁]]([[パラオ]])へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。
 
関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、[[赤城山]]麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「[[伊豆諸島]]の大噴火による消滅」「[[三浦半島]]の陥没」などといった[[噂]]やデマの情報が取り上げられた<ref name="草鹿反省176">[[草鹿龍之介]]『一海軍士官の反省記』176頁</ref>。
 
[[File:960SL buried at Sainome tunnel.jpg|thumb|220px|[[真鶴駅]]-[[根府川駅]]間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車]]
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは熱海線(現在の[[東海道線]])小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の[[内房線]]:岩井-富浦間)<ref>[http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/2000/659-0027.pdf 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム]</ref>。
 
== 地震の混乱で発生した事件 ==