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== 歴史 ==
大家令は12世紀のイングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]がイングランドの慣習に従い、第2代[[レスター伯爵]]{{仮リンク|ロベール・ド・ボーモン (第2代レスター伯爵)|en|Robert de Beaumont, 2nd Earl of Leicester|label=第2代レスター伯爵ロベール・ド・ボーモン}}と初代[[ノーフォーク伯爵]]{{仮リンク|ヒュー・ビゴッド (初代ノーフォーク伯爵)|en|Hugh Bigod, 1st Earl of Norfolk|label=初代ノーフォーク伯爵ヒュー・ビゴッド}}を世襲の家令に任命したことが始まりだった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Lord High Steward|volume=17|pages=3–4|last=Vernon-Harcourt|first=Leveson William}}</ref>。以降レスター伯爵はノーフォーク伯爵の継承権を騎士10人の値段で買い取り、[[シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)|第6代レスター伯爵シモン・ド・モンフォール]]までレスター伯爵が代々大家令の職を世襲した<ref name="EB1911" />。第6代レスター伯爵が1265年に{{仮リンク|イーヴシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}で戦死すると、[[エドマンド (初代ランカスター伯)|エドマンド・オブ・ランカスター]]が一代限りで大家令に任命されたが、後継者の[[トマス (第2代ランカスター伯)|トマス]]は[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]から改めて大家令の世襲権を獲得、さらにエドワード2世の統治が弱体である情勢に乗じて大家令の権力を大幅に強化した<ref name="EB1911" />。
 
トマスは1322年に処刑され、後に公権喪失が取り消されるものの子供がいなかったため弟[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|ヘンリー]]が大家令を相続した<ref name="EB1911" />。以降大家令の職はレスター伯爵の爵位が吸収したものとして扱われ、歴代ランカスター伯爵とランカスター公爵(いずれもレスター伯爵と兼)が大家令を世襲した<ref name="EB1911" />。この時期にも大家令の権威が増し、[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|第3代ランカスター伯爵および第3代レスター伯爵ヘンリー]]は[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の戴冠式(1327年)を、[[ジョン・オブ・ゴーント|初代ランカスター公爵および第6代レスター伯爵ジョン・オブ・ゴーント]]は[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の戴冠式(1377年)を主導、1397年にはジョン・オブ・ゴーントが[[リチャード・フィッツアラン (第11代アランデル伯)|第4/11代アランデル伯爵リチャード・フィッツアラン]]の裁判で裁判官を務めた<ref name="EB1911" />。1399年に[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]が即位すると、彼は息子[[トマス・オブ・ランカスター]](後の初代クラレンス公爵)を大家令に任命、大家令の終身任命としては最後となった<ref name="EB1911" />。
 
スコットランドとアイルランドでは{{仮リンク|スコットランド大家令|en|Lord High Steward of Scotland}}と{{仮リンク|アイルランド大家令|en|Lord High Steward of Ireland}}という同様の官職があり、それぞれスコットランド王位の推定相続人([[ロスシー公爵]])と[[シュルーズベリー伯爵]]([[アイルランド貴族]]のウォーターフォード伯爵という爵位も保有)が就いている。