「シモン・ド・モンフォール」の版間の差分

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翌年の1259年もシモンは改革を推進したが、王や[[グロスタ伯]]{{仮リンク|リチャード・ド・クレア|en|Richard de Clare, 6th Earl of Gloucester}}らの保守派の反撃にあい、1261年にはシモンは力を失いフランスへと退去した{{Sfn|城戸|1991|p=268-270}}。しかし、シモンが帰国すると国内は動揺する{{Sfn|城戸|1991|p=268-270}}。シモンは1264年5月の{{仮リンク|リュイスの戦い|en|Battle of Lewes}}で国王派に圧勝し、ヘンリー3世らを捕らえることに成功した{{Sfn|城戸|1991|p=268-270}}([[第2次バロン戦争]])。そして、イングランドの諸侯や騎士、都市の代表を集め、いわゆる「'''シモン・ド・モンフォールの議会'''」を召集し、国内の広い層からの支持を得ることに務めた{{Sfn|城戸|1991|p=268-270}}。
 
しかしシモンの勢力は孤立を余儀なくされ、王太子[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード]]の反撃に会い、{{仮リンク|イーヴシャムの戦い|en|Battle of Evesham}}で戦死したのである{{Sfn|城戸|1991|p=268-270}}。
 
 
== 家族 ==