「笑福亭仁鶴 (3代目)」の版間の差分

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やがて人に聞かせる欲求が芽生え、[[朝日放送ラジオ]]『[[東西お笑い他流試合]]』『素人演芸会』『素人落語ノド自慢』、[[MBSラジオ|新日本放送]]『[[素人名人会]]』などの素人参加番組に出演する<ref name="toda2014p239"/><ref name="osadap233"/>。その演技は『東西お笑い他流試合』のプロデューサーだった[[狛林利男]]から、欠員者の代替として出演を依頼されるほどになる<ref name="yomiuri" /><ref name="toda2014p239"/><ref name="osadap233"/>。それらの番組のやはり常連出場者だった前田達(のちの[[桂枝雀 (2代目)|2代目桂枝雀]])ら[[演芸]]好きの仲間と[[天狗連]]を結成し、自前の即席落語会や慰問上演などをおこなった<ref>[[#戸田2013|戸田、2013年]]、p.50</ref><ref name="osadap233"/>。前田が[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]に弟子入りした(当時は桂小米)翌年の[[1962年]]3月中旬、素人参加番組の審査員だった[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]に入門を懇願、[[4月1日]]に正式に弟子入りした<ref name="toda2014p243">[[#戸田2014|戸田、2014年]]、pp.243 - 245</ref><ref name="osadap237">[[#小佐田(編)2013|小佐田(編)、2013年]]、pp.237 - 240</ref>。松鶴を選んだ理由の一つは、松鶴に初代春団治の雰囲気を感じたことにあった<ref name="toda2014p243"/><ref name="osadap237"/>。松鶴はのちに、即刻入門を許可した弟子は初めてだったと述べている<ref name="toda2014p243"/>。鉄工所は兄が継いでいたため親の反対はなく、実家の手伝いをすることのみを条件とされた(松鶴は弟子を同居させず「通い弟子」としたので、帰宅して仕事ができた)<ref name="osadap237"/>。
 
「仁鶴」という芸名は、入門からしばらく経ってから決まった{{Refnest|group="注釈"|時期について、戸田(2014)は「入門半年ほど<ref name="toda2014p243"/>」、小佐田(編)(2013)は「三か月ほどたったある日<ref name="osadap237"/>」としている。}}。この由来について、松鶴がタクシーで角を曲がる指示の言葉(「二番目の角」)から発案したという記述が書籍にも記載されているが<ref name="toda2014p243"/>、仁鶴自身は2013年の聞き書きで「あれは冗談」と述べている<ref name="osadap237"/>。
 
[[1962年]]12月の「[[三越]]落語会」が初舞台となる<ref>[[#戸田2014|戸田、2014年]]、p.246</ref><ref name="osadap246">[[#小佐田(編)2013|小佐田(編)、2013年]]、pp.246 - 248</ref>。入門翌年の1963年から[[吉本興業]]に所属した<ref name="osadap246"/><ref name="toda2014p249">[[#戸田2014|戸田、2014年]]、pp.249 - 250</ref>。これは、当時数少ない吉本所属の落語家だった[[林家染丸#3代目|3代目林家染丸]]が、演芸場の増加([[なんば花月]]・[[京都花月]]がこの前後にオープン)に対応して落語家を増やしたい意向から勧誘したとされる<ref name="osadap246"/><ref name="toda2014p249"/>。染丸は松鶴に持ちかけ、松鶴の問いかけに仁鶴が同意した<ref name="toda2014p249"/>。仁鶴に吉本を薦めた理由は、染丸、松鶴ともに「吉本向きだから」だったという<ref>笑福亭仁鶴『仁鶴湯』[[主婦と生活社]]、2005年{{要ページ番号|date=2019-06}}</ref>。この結果、師匠の松鶴([[松竹芸能]]所属)とは違う事務所に籍を置くことになる<ref name="osadap246"/>。