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{{Otheruses||本項の人物が主人公の大河ドラマ|平清盛 (NHK大河ドラマ)|その他の作品|#平清盛を主題とした現代の創作}}
{{Redirect|清盛|小惑星|清盛 (小惑星)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 平清盛
| 画像 = Taira no Kiyomori,TenshiSekkanMiei.jpg
| 画像サイズ = 270px
| 画像説明 = 『[[天子摂関御影]]』の清盛肖像([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[永久 (元号)|永久]]6年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1118年]][[2月10日]])
| 死没 = [[治承]]5年[[2月4日 (旧暦)|閏2月4日]]([[1181年]][[3月20日]])<br/>享年64
| 別名 = 平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
| 戒名 = 浄海(じょうかい)
| 墓所 = [[能福寺]]、[[神戸市]]切戸町、<br/>[[六波羅蜜寺]]、[[祇王寺]]、[[彦島]]
| 官位 = [[従一位]]、'''[[太政大臣]]'''
| 主君 = [[崇徳天皇]]([[鳥羽天皇|鳥羽院]])→[[近衛天皇]](鳥羽院)→[[後白河天皇]]→[[二条天皇]](後白河院)→[[六条天皇]](後白河院)→[[高倉天皇]](後白河院)→[[安徳天皇]](後白河院・高倉院)
| 氏族 = [[伊勢平氏]]、[[桓武平氏]]
| 父母 = 父:[[平忠盛]]<br/>([[白河院]]?)母:[[白河天皇|白河院]][[女房]]([[祇園女御]]の妹?)<br/>継母:[[池禅尼]]
| 兄弟 = '''清盛'''、[[平家盛|家盛]]、[[平経盛|経盛]]、[[平教盛|教盛]]、[[平頼盛|頼盛]]、[[平忠度|忠度]]、他
| 妻 = [[正室]]:'''[[高階基章]]の娘'''<br/>[[継室]]:'''[[平時子|平時子(二位尼)]]'''<br/>側室:[[厳島内侍]]、[[常盤御前]]?
| 子 = [[平重盛|重盛]]、[[平基盛|基盛]]、'''[[平宗盛|宗盛]]'''、[[平知盛|知盛]]、[[平徳子|徳子]]、[[平盛子|盛子]]、<br/>[[平重衡|重衡]]、[[平維俊|維俊]]、[[平知度|知度]]、[[平清房|清房]]、[[平完子|完子]]、[[御子姫君]]、<br/>[[藤原信隆|坊門信隆]]室、[[藤原兼雅|花山院兼雅]]室、[[藤原隆房|冷泉隆房]]室、<br/>[[廊御方 (平家)|廊御方]]?
| 特記事項 =
}}
 
'''平 清盛'''(たいら の きよもり)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]・[[公卿]]。
 
[[伊勢平氏]]の[[武家の棟梁|棟梁]]・[[平忠盛]]の[[長男]]として生まれ、平氏棟梁となる。[[保元の乱]]で[[後白河天皇]]の信頼を得て、[[平治の乱]]で最終的な勝利者となり、[[武士]]としては初めて[[太政大臣]]に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた([[平氏政権]])。
 
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、[[治承三年の政変]]で法皇を幽閉して徳子の産んだ[[安徳天皇]]を擁し政治の実権を握るが、[[平氏]]の[[独裁政治|独裁]]は[[公家]]・[[寺社勢力|寺社]]・武士などから大きな反発を受け、[[河内源氏|源氏]]による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
 
== 生涯 ==
=== 伊勢平氏の嫡男 ===
[[永久 (元号)|永久]]6年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]<ref>[[九条道家]]の日記『玉蘂』[[建暦]]元年3月14日条に「正月十八日」と誕生日が書かれている。</ref>([[1118年]][[2月10日]])、[[伊勢平氏]]の[[武家の頭領|頭領]]である[[平忠盛]]の長男として生まれる(実父は[[白河天皇|白河法皇]]という説もある。詳細[[#系譜|後述]])。出身地は京都府京都市という説が有力である。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた[[女房]]で、忠盛の妻となった女性(『[[中右記]]』によると[[保安 (元号)|保安]]元年([[1120年]])没)である可能性が高い。『[[平家物語]]』の語り本系の諸本は清盛の生母を[[祇園女御]]としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている<ref>[[佐々木八郎]]は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している(『平家物語の研究』早稲田大学出版部、1948年)。</ref>。また、[[近江国]][[胡宮神社]]文書(『仏舎利相承系図』<ref>[http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/binmanji23.jpg 仏舎利相承図テクスト]</ref>)は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を[[猶子]]としたと記している。清盛が忠盛の[[正室]]の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず[[嫡男]]となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。
 
[[大治 (日本)|大治]]4年([[1129年]])正月に12歳で[[従五位|従五位下]]・[[兵衛府|左兵衛佐]]に叙任。これについて[[藤原宗忠|中御門宗忠]]は驚愕している<ref>「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『[[中右記]]』大治4年正月24日条</ref><ref>通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だった。</ref>。清盛は同年3月に[[石清水八幡宮|石清水]]臨時祭の舞人に選ばれるが<ref>『中右記』3月16日条</ref>、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・[[源有仁]]の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない[[院近臣]]伊勢平氏の出身にもかかわらず<ref>院近臣の昇進限界は[[大納言]]までとされていた。([[美川圭]]『公卿会議 ―論戦する宮廷貴族たち』 中公新書(2018年)p.150)</ref>、令制最高職の[[太政大臣]]にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえと言われる<ref>[[元木泰雄]]『平清盛の闘い 幻の中世国家』 kindle版 No.1037/3507</ref>。
 
若い頃は、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・[[池禅尼]]の従兄弟だった。[[高階基章]]の娘との間に[[平重盛|重盛]]・[[平基盛|基盛]]が生まれるが、死別したと推測される。[[保延]]3年([[1137年]])忠盛が[[熊野本宮大社|熊野本宮]]を造営した功により、清盛は[[肥後国|肥後]][[国司|守]]に任じられる。[[久安]]3年([[1147年]])、[[継室]]に迎えた[[平時子]]との間に[[平宗盛|宗盛]]が生まれる。時子の父・[[平時信]]は鳥羽法皇の判官代として、[[藤原顕頼|葉室顕頼]]・[[信西]]とともに院庁の実務を担当していた。
 
この年6月15日、清盛は[[八坂神社|祇園社]]に赴くが、郎等の武具を咎めた[[神人]]と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した([[祇園闘乱事件]])。祇園社を末社とする[[延暦寺]]は忠盛・清盛の配流を要求して[[強訴]]するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を[[贖銅]]三十[[斤]]という[[罰金刑]]にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の[[平家盛]]が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。しかし久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・[[平頼盛|頼盛]]は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、[[平経盛|経盛]]・[[平教盛|教盛]]に比べてその関係は微妙なものであり続けた。[[安芸国|安芸守]]に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の[[厳島神社]]を信仰するようになり、[[仁平]]3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の頭領となる。
 
=== 保元の乱、平治の乱 ===
{{Main|保元の乱|平治の乱}}
[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]では義母・池禅尼が[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の子・[[重仁親王]]の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ[[後白河天皇]]側について勝利をもたらし[[播磨国|播磨守]]、[[大宰府|大宰大弐]]となる。信西と[[藤原信頼]]・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]で政権を握った藤原信頼・[[藤原経宗|大炊御門経宗]]・[[藤原惟方|葉室惟方]]などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で[[源義朝]]・[[源重成]]・[[源季実]]・[[源光保]]といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。
 
=== 全盛期 ===
[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|thumb|230px|長寛2年([[1164年]])に[[厳島神社]]に奉納した『[[平家納経]]』 観普賢経 見返し]]
継室の時子が[[二条天皇]]の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり[[検非違使別当]]・[[中納言]]になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。[[応保]]元年([[1161年]])9月、後白河上皇と[[平滋子]](建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の[[高倉天皇]])が生まれると、[[平時忠]]・[[平教盛]]が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・[[藤原成親]]・[[藤原信隆|坊門信隆]]を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・[[源資賢]]が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・[[近衛基実]]に娘・[[平盛子|盛子]]を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、[[長寛]]2年([[1164年]])に[[蓮華王院]]を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年([[1165年]])に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。
 
後継者の[[六条天皇]]は幼少であり近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は[[大納言]]に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。[[永万]]2年([[1166年]])7月26日、摂政・[[藤氏長者]]の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・[[近衛基通|基通]]が幼少であることから弟・[[松殿基房]]が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は[[藤原邦綱]]の助言により、[[殿下渡領]]・[[勧学院]]領・[[御堂流]]寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は[[春宮坊|春宮大夫]]となり、11月には[[内大臣]]となった。翌[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])2月に太政大臣になるが<ref>これにより後世において「平大相国(へいだいしょうこく)」と尊称される</ref>、太政大臣は白河天皇の治世に[[藤原師実]]と摂関を争って敗れた[[藤原信長]]が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により[[東海道|東海]]・[[東山道|東山]]・[[山陽道|山陽]]・[[南海道]]の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。
 
[[ファイル:Itsukushima floating shrine.jpg|thumb|right|250px|[[厳島神社]] 仁安3年(1168年)清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。]]
仁安3年([[1168年]])清盛は病に倒れ、[[出家]]する。原因は「[[サナダムシ|寸白(すびゃく)]]」だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は[[福原京|福原]]に別荘・[[雪見御所]]を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・[[日宋貿易]]の拡大に没頭する。[[嘉応]]元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と[[藤原忠実]]が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの[[荘園]]を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、[[平時忠]]をして「'''平氏にあらずんば人にあらず'''」といわしめた。
 
=== 平氏に対する不満 ===
{{Main|鹿ケ谷の陰謀|治承三年の政変}}
ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。
 
[[治承]]元年([[1177年]])6月には[[鹿ケ谷の陰謀]]が起こる。これは[[多田行綱]]の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。[[西光]]は処刑とし、藤原成親は[[備前国]]へ流罪<ref>7月9日に食物を与えられず殺害される</ref>、[[俊寛]]らは[[鬼界ヶ島]]に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある<ref>河内祥輔は治承元年事件(鹿ケ谷の陰謀)は具体的な陰謀があったものではなく、平清盛からみて後白河法皇の延暦寺攻撃命令そのものが平家と延暦寺と争わせるだけでなく、平家を「仏敵」にして延暦寺攻撃の仏罰によって滅亡に追い込むための陰謀と解されたとする(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年)P124-144)。</ref>。
 
[[治承]]3年([[1179年]])6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の[[知行国]]であった[[越前国]]を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・[[平完子|完子]])をさしおいて、8歳の[[松殿師家]]を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を[[松殿家]]が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。
 
11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、[[クーデター]]を決行した。いわゆる[[治承三年の政変]]であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、[[藤原師長]]など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。しかし、院政停止後の政権構想は拙いものだった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた[[平頼盛]]・[[藤原兼雅|花山院兼雅]]の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・[[九条兼実]]の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・[[藤原隆季|四条隆季]]・[[源通親|土御門通親]]などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年([[1180年]])2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した([[安徳天皇]])。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。
 
=== 反乱の狼煙 ===
{{Main|治承・寿永の乱}}
平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・[[以仁王]]の挙兵だった。以仁王は優秀だったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、[[暲子内親王|八条院]]の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる[[源頼政]]・[[下河辺行義]]・[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]・[[源仲家]]などが付き従い、平氏に反発する[[興福寺]]・[[園城寺]]もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使で平氏家人の藤原景高・[[藤原忠綱 (秀郷流)|伊藤忠綱]]が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ[[天台宗]]で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の[[大輪田泊]](現在の[[兵庫県]][[神戸市]])を臨む地への[[遷都]]を目指して[[福原京#福原行幸|福原行幸]]を強行する。
 
しかし以仁王の[[令旨]]が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた[[源頼朝]]、[[武田信義]]を棟梁とする[[甲斐源氏]]、9月には[[信濃国]]において[[源義仲|木曾義仲]]が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、[[平維盛]]を総大将とした大軍を関東に派遣したが、[[富士川の戦い]]では交戦をせずに撤退してしまった。
 
この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都する。12月になると清盛は、平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の[[山本義経]]・[[柏木義兼]]を打ち破って、近江の平定に成功する([[近江攻防]])。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした大軍を[[奈良|南都]]に派遣、12月28日、興福寺・[[東大寺]]など南都の諸寺を焼き払った。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、[[南都焼討]]は数千もの市民を犠牲とし、同地方にある大仏の殆どを焼失させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。
 
=== 最期 ===
[[File:Yoshitoshi_The_Fever.jpg|thumb|300px|清盛は27日に熱病に倒れた]]
 
治承4年([[1180年]])末までには、平氏の勢力基盤である西国においても[[伊予国]]の[[河野通清]]・[[河野通信|通信]]父子、翌治承5年([[1181年]])には[[豊後国]]の[[緒方惟栄]]・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった[[佐竹秀義]]などが頼朝によって討伐される。
 
このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは[[天平]]3年([[731年]])に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた[[新田部親王]]の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また[[丹波国]]に諸荘園総下司職を設けて、[[平盛俊]]を任じた。さらに[[越後国]]の[[城資永]]、[[陸奥国]]の[[藤原秀衡]]に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた<ref>病状の記録から、大陸から伝来して流行していた[[風土病]]である[[マラリア]]に罹ったとされる。</ref>。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の[[平盛国]]の屋敷で死亡した。[[享年]]64。
 
清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる。『[[平家物語]]』では清盛が死に臨んで「[[葬儀]]などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した<ref>『[[玉葉]]』による</ref>。
 
== 死後 ==
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの[[飢饉]]([[養和の大飢饉]])という悪条件なども重なって、[[寿永]]2年([[1183年]])、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして[[元暦]]2年([[1185年]])の[[壇ノ浦の戦い]]に敗れて平氏は滅亡した。
 
== 評価 ==
[[ファイル:Taira no Kiyomori.jpg|thumb|200px|平清盛 [[菊池容斎]]画、明治時代]]
* 『[[平家物語]]』における悪虐、非道、非情の描写から、かつての清盛は成り上がりの暴君・傲慢な性格の持ち主だという評価が定着していたが、現在では実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったとも言われている。(実際、後の源頼朝や源義経など義朝の遺児を殺さずに伊豆への流罪、仏門入りで済ませたことが災いして後に平家を滅ぼすことにもなった。しかしこれは[[池禅尼]]、もしくは彼女の背後の[[上西門院]]や頼朝の母方の実家の[[藤原季範|熱田大宮司家]]の意向も働いていると言われている。)
** 『[[十訓抄]]』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせた」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。
** 『平家物語』においても若い頃に世話になった[[藤原顕時]]の息子である[[藤原行隆|葉室行隆]]が苦境に陥っていることを知って援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。
* 清盛の非道を示す有名なエピソードである[[殿下乗合事件]]は、清盛が[[松殿基房]]に報復したというのは『平家物語』の虚構であり、『[[玉葉]]』や『[[百錬抄]]』の記述によれば、実際に非道な報復を行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝罪したとされる<ref>いずれにせよ、この事件の背景には平氏と摂関家([[松殿家]])の強い反目があったと考えられている。</ref>。
* 平治の乱前後の清盛について『[[愚管抄]]』では、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。
* 『[[源平盛衰記]]』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、[[経が島]]では清盛が[[人柱]]を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。
* 政治的には[[日宋貿易]]に見られるような財政基盤の開拓、[[宋銭]]を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、経が島築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、(貴族的要素が強いとは言え)日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績も残している。中途で失敗に終わってしまったとはいえ、福原(今の神戸)に目をつけ、交易を通じて第二の都として発展させようとしたことから、先見性も高かったことが伺える。
* 軍記物で政治上手の戦下手と書かれることも多いが、平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法(評:元木泰雄)」を得意とする優秀な武将でもあったとされる。
* 京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した意義は無視できない。皮肉なことに、この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていった。
 
== 経歴 ==
{| class="wikitable" style="width: 100%;"
|-
!style="width: 4em;"|和暦
!style="width: 4em;"|西暦
!style="width: 6em;"|月日<br />([[旧暦]])
!内容<!--内容は簡潔に記してください-->
!style="width: 5em;"|出典
|-
|[[元永]]元
|1118年
|1月18日
|生誕([[数え年]]1歳)
|
|-
|[[大治 (日本)|大治]]4
|[[1129年]]
|1月6日
|従五位下。1月24日、左兵衛佐。(12歳)
|公卿補任
|-
|大治6
|[[1131年]]
|1月5日
|従五位上(14歳)
|公卿補任
|-
|[[長承]]4
|[[1135年]]
|1月5日
|正五位下。8月21日、従四位下。(18歳)
|公卿補任
|-
|[[保延]]2
|[[1136年]]
|4月7日
|[[中務大輔]](19歳)
|公卿補任
|-
|保延3
|[[1137年]]
|1月30日
|[[肥後国|肥後守]]兼任(20歳)
|公卿補任
|-
|保延6
|[[1140年]]
|11月14日
|従四位上(23歳)
|公卿補任
|-
|[[久安]]2
|[[1146年]]
|2月1日
|正四位下。2月2日、[[安芸国|安芸守]]兼任。肥後守任替。(29歳)
|公卿補任
|-
|rowspan="2"|[[保元]]元
|rowspan="2"|[[1156年]]
|7月6~11日
|[[保元の乱]](39歳)
|公卿補任
|-
|7月11日
|[[播磨国|播磨守]]
|公卿補任
|-
|保元3
|[[1158年]]
|8月10日
|大宰大弐(41歳)
|公卿補任
|-
|[[平治]]元
|[[1159年]]
|12月9~26日
|[[平治の乱]](42歳)
|
|-
|[[永暦]]元
|[[1160年]]
|6月20日
|正三位。8月11日、[[参議]]。大宰大弐如元。9月2日、[[右衛門督]]兼任。12月30日、大宰大弐辞任。(43歳)
|公卿補任
|-
|永暦2
|[[1161年]]
|1月23日
|[[検非違使別当]]兼職。近江権守兼任。9月13日、権[[中納言]]。検非違使別当・[[右衛門督]]如元。(44歳)
|公卿補任
|-
|[[応保]]2
|[[1162年]]
|1月9日
|検非違使別当・右衛門督両官職辞任。閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。4月7日、[[皇太后宮権大夫]]兼任。8月20日、従二位。9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。(45歳)
|公卿補任
|-
|[[長寛]]3
|[[1165年]]
|1月23日
|[[兵部卿]]兼任。8月17日、[[権大納言]]。兵部卿・皇太后権大夫如元。(48歳)
|公卿補任
|-
|[[永万]]2
|[[1166年]]
|6月6日
|正二位。10月1日、[[春宮大夫]]兼任。兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。11月11日、[[内大臣]]。(49歳)
|公卿補任
|-
|[[仁安 (日本)|仁安]]2
|[[1167年]]
|2月11日
|従一位[[太政大臣]]。5月17日、太政大臣辞任。(50歳)
|公卿補任
|-
|仁安3
|[[1168年]]
|2月11日
|出家(51歳)
|公卿補任
|-
|[[承安 (日本)|承安]]元
|[[1171年]]
|
|[[平徳子|徳子]]入内(54歳)
|
|-
|[[治承]]元
|[[1177年]]
|
|[[鹿ケ谷の陰謀]](60歳)
|
|-
|治承3
|[[1179年]]
|
|[[治承三年の政変]](62歳)
|
|-
|rowspan="4"|治承4年
|rowspan="4"|[[1180年]]
|4月22日
|[[安徳天皇]]即位(63歳)
|
|-
|4月
|[[以仁王]]が平氏追討の令旨を発する
|[[吾妻鏡]]
|-
|6月10日
|准三宮宣下
|[[百錬抄]]
|-
||8月17日
|[[源頼朝]]挙兵
|吾妻鏡
|-
|[[養和]]元
|[[1181年]]
|閏2月4日
|薨去(享年64 / 満63歳没)
|[[玉葉]]
|}
 
== 墓所 ==
[[ファイル:Kobe-heisyoukokubyou.JPG|thumb|250px|能福寺にある平相國廟]]
以下が清盛の墓所として伝わっている。
* [[神戸市]][[兵庫区]]北逆瀬川の宝積山[[能福寺]]平相國廟
* 神戸市兵庫区切戸町の清盛塚(供養塔)
* [[京都市]][[東山区]]松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町の補陀洛山[[六波羅蜜寺]]の平清盛塚
* 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨山[[大覚寺]](旧嵯峨御所大覚寺門跡)の塔頭寺院である[[祇王寺]]の供養塔
* [[山口県]][[下関市]]彦島の清盛塚
 
== 系譜 ==
平清盛は、[[山城国]]の[[京都]]または[[伊勢国]]の[[津市|産品]](うぶしな)の生まれとされる。[[桓武天皇]]の曾孫・[[平高望]](たかもち)の子孫で、坂東の[[桓武平氏]]の流れを汲む[[伊勢平氏]]の一族。
 
[[桓武天皇]]-[[葛原親王]]-[[高見王]]-[[平高望]]-[[平国香]]-[[平貞盛]]-[[平維衡]]-[[平正度]]-[[平正衡]]-[[平正盛]]-[[平忠盛]]-'''平清盛'''
 
[[平忠盛]]の[[長男]]。『[[公卿補任]]』の記事から逆算すると、[[元永]]元年([[1118年]])の誕生となる。『[[中右記]]』[[保安 (元号)|保安]]元年([[1120年]])7月12日条の「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事により忠盛の妻が仙院([[白河天皇|白河法皇]])の周辺に仕えた[[女房]]であったことがわかり、この女性が清盛の母である可能性がある。『[[平家物語]]』は、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した[[祇園女御]]が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる[[落胤]]説)。しかし、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。また、[[明治]]26年([[1893年]])に発見された滋賀県・[[胡宮神社]]所蔵の『仏舎利相承系図』([[文暦]]2年([[1235年]])の日付を持つ)には、清盛の母「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「[[猶子]]」として白河院所有の仏舎利を清盛に伝えたことが記されている<ref>[[高橋昌明]]は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している(『清盛以前-伊勢平氏の興隆- 増補・改訂版』文理閣、2004年)。</ref>。
 
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{{familytree/end}}
[[ファイル:NyakuichiJinjyaTairanoKiyomori.jpg|thumb|200px|[[京都市]][[下京区]] [[若一神社]]の平清盛像]]
* 父:[[平忠盛]]
* 母:[[祇園女御]]の妹?
* 継母:[[池禅尼]]
** 弟:[[平家盛]]
** 弟:[[平頼盛]]
* 弟:[[平経盛]]
* 弟:[[平教盛]]
* 弟:[[平忠度]]
 
* [[正室]]:[[高階基章]]の女
** [[長男]]:[[平重盛]]
** 次男:[[平基盛]]
 
* [[継室]]:[[平時子]](二位尼) - [[平時信]]の娘
** 三男:[[平宗盛]]
** 四男:[[平知盛]]
** 五男:[[平重衡]]
** 三女?:[[平徳子]](建礼門院) - [[高倉天皇]][[中宮]]
* [[側室]]:[[厳島内侍]]
** 七女?:[[御子姫君]]
* 側室?:[[常盤御前]]
** 八女?:[[廊御方 (平家)|廊御方]]
 
* 生母不明の子女
** 六男:[[平維俊]]
** 七男:[[平知度]]
** 八男:[[平清房]]
** 長女?:[[藤原信隆|坊門信隆]]室
** 次女?:[[藤原成範|藤原成憲]]室、後[[藤原兼雅|花山院兼雅]]室
** 四女?:[[平盛子]] - [[近衛基実]]室、[[高倉天皇]]准母、[[准三宮]]
** 五女?:[[藤原信親]]室、後[[藤原隆房|冷泉隆房]]室
** 六女:[[平完子]] - [[近衛基通]]室
 
* 養子
** [[平清貞]] - 実父:[[中原師元]]
** [[平清邦]] - 実父:[[藤原邦綱]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 史料 ==
; 史料
* 『[[玉葉]]』
* 『[[愚管抄]]』
* 『[[吾妻鏡]]』
; 軍記物語
* 『[[保元物語]]』
* 『[[平治物語]]』
* 『[[平家物語]]』
* 『[[源平盛衰記]]』
 
== 参考文献 ==
* [[上横手雅敬]] 『源平争乱と平家物語』 角川選書、2001年。
* [[五味文彦]] 『平清盛』 [[吉川弘文館]]〈人物叢書〉、1998年。
* [[高橋昌明]] 『平清盛 福原の夢』 [[講談社]]、2007年。
* [[元木泰雄]] 『平清盛の闘い-幻の中世国家』 角川叢書、2001年。
* 元木泰雄 『平清盛と後白河院』 角川選書、2012年。
* [[山田真哉]] 『経営者・平清盛の失敗-会計士が書いた歴史と経済の教科書』 講談社、2011年。
 
== 平清盛を主題とした現代の創作 ==
; 小説
* 『[[新・平家物語]]』 [[吉川英治]]
* 『平家物語』 [[森村誠一]]
* 『双調平家物語』 [[橋本治]]
* 『清盛』 [[三田誠広]]
* 『宮尾本 平家物語』 [[宮尾登美子]](大河ドラマ『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』の原作、演:[[渡哲也]])
* 『平家』 [[池宮彰一郎]]
* 『海国記』 [[服部真澄]]
* 『小説 平清盛』 [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]
; 映画
* 『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』(1955年、監督:[[溝口健二]]、主演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]])
; テレビドラマ
* 『[[清盛と常盤]]』(1960年、日本テレビ、主演:[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎]])
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』(1972年、NHK大河ドラマ、主演:[[仲代達矢]])
* 『[[平清盛 (1992年のテレビドラマ)|平清盛]]』(1992年、TBS、主演:[[松平健]])
* 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』(2012年、NHK大河ドラマ、主演:[[松山ケンイチ]])
; 人形劇
* 『[[人形歴史スペクタクル 平家物語]]』(1993年12月 - 1995年1月、NHK人形劇、主演(声):[[風間杜夫]])
; 歌謡曲
* 『長編歌謡浪曲 清盛天下を射る』([[三波春夫]])
* 『長編歌謡浪曲 神戸を拓く清盛』(三波春夫)
; 漫画
* 『平家物語』(マンガ日本の古典シリーズ) [[横山光輝]]
* 『白の悠久 黒の永遠』 [[原ちえこ]]
; 戯曲
* 『[[野望と夏草]]』 1970年、[[山崎正和]]
; ウォーゲーム(ボードゲーム)
* 『清盛軍記 保元・平治の乱』([[ウォーゲーム日本史]])
 
== 関連項目 ==
* [[平家納経]]
* [[全国平家会]]
* [[名馬一覧|望月]]
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Taira no Kiyomori}}
* [http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏清盛流【1】]
* [http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/ 厳島神社宮島観光公式サイト]
{{歴代太政大臣}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいら の きよもり}}
[[Category:平清盛|*]]
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:平安時代後期の貴族]]
[[Category:平家|きよもり]]
[[Category:日本の財政家]]
[[Category:日本の貿易立国論者]]
[[Category:日本の神 (人物神 平氏)|きよもり]]
[[Category:従一位受位者]]
[[Category:マラリアで死亡した人物]]
[[Category:1118年生]]
[[Category:1181年没]]