「長崎市立長崎商業高等学校」の版間の差分

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*[[1857年]]([[安政]]4年)
**6月 - [[幕府]]は[[長崎奉行]]に対し、西役所(現在の長崎市江戸町 [[長崎県庁]]の位置)で蘭[[通詞]]、唐通詞<ref>蘭通詞はオランダ語通訳、唐通詞は中国語通訳のこと。</ref>の他、一般有志の者にも英語、フランス語、ロシア語を学習させるよう訓令。
**8月 - 長崎奉行所が英語学習者を一般に募集し、「語学伝習所」が発足<ref name=na>市制百年 長崎年表 (1989年(平成元年)4月1日発行 長崎市役所)</ref>
*[[1858年]](安政5年)
**7月 - 西役所内の語学伝習所を立山の岩原屋敷内にある奉行支配組頭の永持亨次郎宅に移し、「[[長崎英語伝習所]]」([[江戸幕府|幕府]]直轄)と改称し、開設。
***蘭通詞 楢林栄左衛門、[[西吉十郎]]が頭取となり、オランダ海軍将校 ウイツヘルス、イギリス人フレッチェルなどが英語教師となり、唐通詞・蘭通詞・その他役人の子弟に英語の教育を行う。
***この英語伝習所の開設は、[[東京大学]]の前身である江戸[[蕃書調所]]に英語科・仏語科を新設する2年前にあたる。<ref name=na />
*[[1862年]]([[文久]]2年) - 片淵郷組屋敷内の乃武館内に移転し、英語稽古所(英語所)と改称(頭取は中山門太)
*[[1863年]](文久3年)
**7月 - 立山役所の東長屋に移転し、唐通詞 [[何礼之|何礼之助]]、平井義太郎が学頭となる。
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*[[1868年]]([[明治]]元年)4月 - 明治政府直轄となり、「[[長崎英語学校 (旧制)|広運館]]」と改称。
*[[1871年]](明治4年)11月 - 広運館が[[文部省]]の管轄となる。
*[[1872年]](明治5年)8月 - [[学制]]公布に伴い、「第六大学区第一番中学」と改称
*[[1873年]](明治6年)
**[[4月10日]] - 学区分類の変更により、「第五大学区第一中学」と改称。
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*[[1878年]](明治11年)[[3月20日]] - 長崎県、中島聖堂から長崎英語学校跡地に長崎準中学校<ref>小学校卒業者が出始めたため、長崎県が[[1876年]](明治9年)3月2日に外浦町(現在の江戸町・万才町)の民家に開設。生徒増加により、同年10月中島聖堂に移転。</ref>を移転し、[[長崎県立長崎中学校 (旧制)|長崎県立長崎中学校]]に改称。
*[[1882年]](明治15年)[[7月1日]] - 「長崎県立長崎外国語学校」と改称。
*[[1884年]](明治17年)4月1日 - 文部省令によって、県内の7中学<ref>大村・諫早・島原・福江・平戸・壱岐・厳原</ref>を廃止し、長崎外国語学校内(立山屋敷の一部)に県内唯一の「長崎県立長崎中学校」を設立<ref>この長崎県立長崎中学校(旧制)は現[[長崎県立長崎東高等学校]]、[[長崎県立長崎西高等学校]]の源流にもなっている。</ref>(県立外国語学校と長崎県立長崎中学校は併存)
 
;旧制商業学校
*[[1885年]](明治18年)- '''創立年'''
**8月 - 大村町(現 万才町)の旧商業会議所跡に第一種商業学校として、九州では初めて「'''[[長崎区]]立長崎商業学校'''」が設立(修業年限 3ヶ年)
**[[11月5日]] - 開校式を挙行。
***1884年(明治17年)に商業学校通則が公布されてから、横浜・大阪・神戸などに商業学校が発足したが、海外貿易港の長崎にはまだ商業学校がなかった。当時の石田英吉長崎[[県令]](県知事)は、このことを嘆き、松田源太郎ら県下の貿易商に商業学校の設立を勧めた。そこで商業学校設立委員会が組織され、市民から寄付金を募り、経費を貿易五厘金(貿易額の千分の五を積み立てる団体)から補助を受けて学校を創立した。
*[[1886年]](明治19年)
**2月 - 長崎商業学校内に、付属の夜学教場<ref>現在の夜間定時制に相当。</ref>を開設(3月1日に授業を開始、6月に長崎商業徒弟学校と改称
**4月1日 - 長崎外国語学校と長崎商業学校を統合し、「'''県立長崎商業学校'''」と改称した上で、岩原郷新町(現 興善町)に設置。付属の夜学教場はそのまま大村町に残す。
*[[1887年]](明治20年)5月 - 長崎商業徒弟学校が袋町(現 栄町)の新校舎に移転。
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**4月 - 学制改革により、「'''長崎市立長崎商業高等学校'''」(現校名、全日制課程)と改称。
**[[6月18日]] - [[長崎市立長崎高等学校#長崎市立長崎第二商業学校|長崎市立長崎第二商業高等学校]]が長崎商業高等学校内に移転。
**学校新聞「ゆ〜かり」創刊
*[[1949年]](昭和24年)4月 - 男女共学となり女子生徒23人が入学。
*[[1950年]](昭和25年)[[6月1日]] - グラウンドで[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]と[[西日本パイレーツ]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]公式戦が開催される。
*[[1952年]](昭和27年)
**[[1952年]](昭和27年) - 校旗を制定。
**野球部、2回目の[[第24回選抜高等学校野球大会]]出場。
**野球部、3回目の[[第34回全国高等学校野球選手権大会]]出場。
*[[1954年]](昭和29年) - 野球部、4回目の[[第36回全国高等学校野球選手権大会]]出場。
**野球部、4回目の[[第36回全国高等学校野球選手権大会]]出場。
**12月 - 西新館が完成。
*[[1957年]](昭和32年)9月 - 体育館が完成。
*[[1960年]](昭和35年)9月 - 武道場が完成。
**9月 - 武道場が完成。
**11月 - 創立75周年記念式典を挙行。
*[[1965年]](昭和40年)11月 - 創立80周年記念式典を挙行。長商讃歌を制定。
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*[[1985年]](昭和60年)11月 - 創立100周年記念式典を挙行。
**全校生徒や教職員、同窓生1,700名が出席し、[[ちょうちん]]行列など多くの記念事業が行われる。
*[[1986年]](昭和61年)[[3月24日]] - 油木校舎で最後の修了式を行う。
**[[3月24日]] - 油木校舎で最後の修了式を行う。
**[[3月25日]] - 新校舎(泉町、現在地)への引っ越し作業を開始。3月中に完了。
***泉町の新校舎の総面積は油木校舎の約3倍の9万4000m²。そのうち1万m²に教室棟、図書・視聴覚棟、産業振興棟など鉄筋コンクリート4階建ての建物が5棟が並ぶ。
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*[[1991年]](平成3年)4月 - 国際経済科を設置。1学年あたり商業科5学級・情報処理科2学級・国際経済科1学級となる。
*[[1992年]](平成4年)4月 - 海外留学生の受け入れを開始。
*[[1995年]](平成7年) - 4月 - [[キャメル]]色の[[ブレザー]]に制服改定。
**4月 - [[キャメル]]色の[[ブレザー]]に制服改定
**11月 - 創立110周年記念式典を挙行。
*[[2004年]](平成16年)4月 - 商業科、情報処理科、国際経済科を情報国際ビジネス科に統合。この時の入学生より情報国際ビジネス科7学級となる。
*[[2005年]](平成17年)11月 - 創立120周年記念式典を挙行。株式会社[[ジャパネットたかた]]社長[[高田明]]の講演会等の記念事業が行われた。
**3[[2006年]](平成18年)3月 - 商業科、情報処理科、国際経済科の最後の卒業生を送り出し、以上3科を閉科。
*[[2006年]](平成18年)
**3月 - 商業科、情報処理科、国際経済科の最後の卒業生を送り出し、以上3科を閉科。
**4月 - 全学年、情報国際ビジネス科1学科になり、各学年7学級、計21学級となる。
*[[2007年]](平成19年)12月 - 女子バスケットボール部、[[第38回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会]]に初出場。
*[[2016年]](平成28年)- 野球部、29年ぶり7回目の夏の甲子園に出場。[[第98回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に出場。
 
== 学校行事 ==