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初期議会においては政府の[[超然主義]]と衆議院が対立していたが、[[日清戦争]]後には政府と両院の提携が行われるようになり、[[大正デモクラシー]]により[[政党政治]]が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で[[議院内閣制]]は確立できず、[[1932年]]([[昭和]]7年)に起きた軍部のクーデター未遂である[[五・一五事件]]で地位が低下する。特に、[[1940年]](昭和15年)に全政党が解散して[[大政翼賛会]]が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの[[翼賛議会]]と化していった<ref group="注釈">もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせなければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮するなどの一定の譲歩がなされたために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。</ref>。
 
[[衆議院]]では成立当初から乱闘騒ぎがしばしば起きていたのに対し、貴族院ではほとんどなかったとされている。なお、[[日清戦争]]中の[[第7回帝国議会|第7議会]]は[[大本営]]のあった[[広島市]]で開催されている。
 
[[1947年]](昭和22年)[[3月31日]]の第92議会で衆議院は解散し、貴族院は停会された。そして、同年[[5月3日]]に[[日本国憲法]]が施行され、帝国議会は[[国会 (日本)|国会]]に移行した。