「チリ・クーデター」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎海外の反応: ピノチェトへのメッセージ
99行目:
クーデターを主導したニクソン政権は、クーデターが成功すると、自分たちの役割を小さく見せることを目論んだ。9月16日、ニクソンとキッシンジャーは電話で次のような会話を交わした。キッシンジャーが「祝杯でもあげてもらいたいところですが。アイゼンハワーの時代なら我々はヒーローですよ」と不平をもらすと、ニクソンは録音されていることを意識して「だがな、俺たちがやったんじゃないぜ。君も知ってのとおりだ。今回の件では、俺たちは日陰者だ」と返した<ref name=":0" />。結局米国政府は、ピノチェトのチリを即座に承認することは避け、9月24日に静かに承認した。世界で11番目だった。ちなみに、この承認を遅らせるという作戦を提案したのはピノチェトの側である<ref name=":0" />。自分の政権が米国にとって厄介な問題になるとピノチェトが認識していた証拠との説が有力である。
 
それよりも早く、クーデターの翌々日(13日)に、米国はピノチェト政権を歓迎する旨の公電がホワイトハウスからサンティアゴへ打たれた<ref name=":0" />。その公電では「軍事政権を支援したい、協力したい」としている<ref name=":0" />。
 
1976年9月、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあった[[オルランド・レテリエル]]が滞在先の[[ワシントンD.C.]]でDINAによる車爆弾で暗殺された。レテリエルは、その一か月ほど前に、ピノチェト軍事政権による人権侵害と同政権による新自由主義的経済政策は表裏一体の関係にあるとする批判記事を『ネーション』誌で発表したばかりだった<ref name=":0" />。この事件は、よりによって米国の首都でのテロ行為であったため、当時の大統領[[ジミー・カーター]]が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係はある程度回復したが元の状態にまでは戻らず、アメリカ政府内にはピノチェトに対する不信感が残った。そして、米国の合法的居住者だった19歳のチリ人カメラマンが生きたまま火をつけられるという事件<ref name=":0" />が米国でも報道されると、米国政府もピノチェトから距離を置くようになり、スポンサーを失ったピノチェトは[[1990年]]に大統領を辞任する。レテリエル暗殺がその遠因ともなっていたとする説もある。