チリ・クーデター
チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデターのこと。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権(アジェンデ大統領の人民連合政権)を、米国政府および米国多国籍企業による主導のもと、アウグスト・ピノチェトチリ陸軍大将(当時陸軍総司令官)の指揮する軍部が武力で覆した。

概要編集
ラテンアメリカで左派ナショナリズムが勢いづいていた[1]1970年(東西冷戦はデタントの時代に入っていた)、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、自由選挙を通じてマルクス主義政権[1]が樹立された世界初の例として世界の注目を浴びた。
しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に対して、反米国従属のナショナリズムの波がラテンアメリカ全体に波及することをおそれた[1]米国多国籍企業および米国政府が反発し、富裕層による似非デモ、金融封鎖による経済混乱、陸軍総司令官の暗殺、プロパガンダなどを通じてチリ軍部をそそのかして反アジェンデで立ち上がるべく仕向けた[1](ちなみにチリ軍部は伝統的に政治不介入で有名だった[1])。そして遂には1973年、アウグスト・ピノチェト陸軍大将(当時チリ陸軍総司令官)らが率いる軍部が軍事クーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。
モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[2]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[3]。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[4][5][6][7]。アジェンデが自動小銃を膝に抱えて引き金を引いた、銃弾は2発発射されたとの結論だった[1]。
このクーデター以降、ピノチェトを議長とする軍事政府評議会による軍事独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。とりわけ標的にされたのは、軍事政権の自由市場経済政策に反対の立場をとる者と、サンティアゴの貧民街の民衆だった[1]。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛し、ピノチェトは「チリをプロレタリアの国ではなく起業家の国にする」[1]と宣言して米国政府の機嫌をとった。しかし、ピノチェト軍事政権による人権侵害が続く中、ピノチェトと蜜月関係にあったレーガンに対する米国連邦議会からの風当たりが強くなるとレーガンもピノチェトを見捨てるようになり[1]、米国による後ろ盾を失ったピノチェト軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。
なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。
クーデターまでのいきさつ編集
1970年選挙編集
候補者 | 得票数 | % |
---|---|---|
アジェンデ | 1,070,334 | 36.30% |
アレッサンドリ | 1,031,051 | 34.98% |
トミッチ | 821,000 | 27.84% |
総計 | 2,922,385 |
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者・マルクス主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレッサンドリ、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチをそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。
ラテンアメリカにおける脱米国依存のナショナリズムの拡大を懸念した[1]ITTやペプシコその他米国実業界はこの動きに危機感を抱き、アジェンデの大統領就任を阻止するようキッシンジャーおよびニクソンその他の米国政府高官たちに働きかけた[1]。そして決選投票の38日前に当たる9月15日、ニクソン大統領はCIAに対し、どのような手段を使ってでもアジェンデの就任を阻止するよう命じた[1]。当時のチリ軍部はアジェンデの大統領就任を静かに受け入れていた[1]ので、CIAは、議会での決選投票における票の買収と軍事クーデターという2本柱の作戦を立てた[1]。チリ駐在米国大使はチリの現職大統領に次のように言って脅しをかけた。「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入るのを許さない。あらゆる手段を使ってチリとチリ人を最低の貧困状態に陥れてやる」[1]。
CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダを展開した。記者たちに金銭を渡してCIA製の記事を新聞や雑誌に掲載させた。ラジオ番組では迫真の演技も行われた。番組の途中で銃声に続いて女性の悲鳴、「息子がマルクス主義者にやられた」との叫び、など。
CIAのサンティアゴ支局長はチリの狂信的右翼の退役軍人ロベルト・ビオーと接触した。そして彼が決起した場合にどうなるかを予測し、その場合にはチリで「大虐殺が長引いて内戦になるだろう」とCIA本部に伝えていた。この点についてチリ国家警察隊の高官から問われた彼は、「米国政府は気にしない。結果としての混沌がアジェンデ大統領を阻むのなら」と告げた[1]。
しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、米国の陰謀にとって邪魔者以外の何者でもなかった。そんなシュナイダーは、決選投票直前の10月22日に襲撃されて重傷を負い、25日に死亡した[1]。すでに陸軍を退役させられていたロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主党は人民連合を支持(同党の議員74名全員がアジェンデに投票した[1])、アジェンデ大統領が誕生した。
アジェンデ大統領の任期中編集
米国政府はさっそくアジェンデ打倒の作戦に着手した。まず手始めに行ったのが対チリ金融封鎖だった。チリの経済を混乱させ、社会不安を煽り、それによってチリ軍部が反政府で蜂起する口実を作るのが目的だった。米国政府の直接の支配下にある米国輸出入銀行と米国国際開発庁は即座に対チリ融資を停止した。米国が牛耳る国際金融機関である世界銀行と米州開発銀行に対しても、対チリ融資を停止させた[1]。またニクソン大統領はヨーロッパ諸国に対しても、対チリ融資を控えるよう圧力をかけた[1]。当時のチリは、前政権から引き継いだ債務が10億ドルにのぼり[1]、また、チリの産業も伝統的に米国からの融資に依存していたため、この金融封鎖がチリ経済に与えた打撃は大きかった[1]。
金融封鎖と並行して、米国政府はチリ軍部に対しては法外な支援を提供した。資金面での支援だけでなく、技術面での支援も惜しげ無く提供し、軍事顧問団も派遣した[1]。こうした一連の動きを通じて、チリ軍部の多くの将校は、自分たちがクーデターを起こした場合に米国政府が歓迎してくれるということを理解し始めた。とはいえ、1971年の段階では、チリ軍部内の反アジェンデ派はごく少数だった[1]。
こうした外国からの妨害がありながらも、政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に(14.2%増[1])支持を伸ばした。しかし、 アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。
とりわけ効力を発揮したのが、CIAが資金援助して主導した似非デモ(1971年12月「からなべデモ」)と、CIAがトラック所有者に報酬を支払って敢行させた長期ストライキ(1972年10月と1973年7月)だった。前者は、物不足を口実として富裕層の婦人連に行わせたデモで、チリの「すべての」婦人がアジェンデに反対しているような印象を与えることを狙ったものだった。後者はチリの物流を麻痺させ、チリ経済に大きな打撃を与えた[1]。
それに先立つ1971年7月、チリ国会は銅山国有化の憲法修正案を全会一致で採択した。この憲法修正は「公正なる補償」を原則としており、接収対象の銅会社(当時チリの銅山を支配していた米国のケネコット社およびアナコンダ社)に対する補償額(資産価値)から過去の超過利潤額を差し引くことを可能としていた。そのため、結果的に補償額よりも控除額の方が大きくなり、ケネコット社およびアナコンダ社に対する補償額はゼロになり、原則としては有償ではあるが実質的には無償という結果になった。チリの会計検査院もこの措置を支持し、補償は不要との決定を下した[1]。
しかし米国のニクソン大統領はチリにおける接収の前例がラテンアメリカの他の国々に波及することを恐れ[1]、以前にも増して対チリ金融封鎖を強化した。このニクソン政権による対チリ金融封鎖政策は米国内でも議論の的となり、とりわけ金融封鎖に批判的だったエドワード・ケネディ上院議員は次のように主張した。「社会正義と政治的自由を積極的に追求している国には、我が国からどんどん二国間援助を提供すべきです」と[1]。
ニクソン政権による対チリ報復措置は金融封鎖だけにとどまらず、国営化されたチリの銅産業を妨害するまでになった。まずは米国内のチリ政府の口座を凍結させた[1]。これによりチリは米国に銅を販売することができなくなった。さらに米国政府はケネコット社と共謀し、ヨーロッパに輸出されるはずのチリの銅を差し押さえるようヨーロッパ諸国の司法当局に要請した[1]。それだけでなく米国政府は、銅の生産に用いられる機械類の部品をチリに供給しないよう圧力をかけることによって銅の生産そのものを妨害する作戦に出た[1]。さらには、米国内に保有していた銅備蓄を放出することによって銅の国際価値を低下させるという工作も行った。こうして、輸出収入の80%を銅に依存していたチリは大きな打撃を被った。
こうした事態に直面したアジェンデは、銅の接収の問題を国際仲裁によって解決することを提案した。ところがニクソン政権は、1914年の二国間条約を持ち出すことによってアジェンデの提案を拒否した。その条約には「一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題(中略)は、どのような仲裁も受けない」と記されているから、というのがその理由だった[1]。
政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、それが結果的にインフレと物不足を引き起こした、とする説は過去には聞かれた。とはいえ、アジェンデ政権が成立した当時のチリでは人口の40%が栄養不良の状態に放置され、医療も受けられない状態だったため、事態は一刻を争う状況にあった。また、銅山の国有化はチリ国会ひいてはチリ国民が決めたことであり、「アジェンデが進めた」のではなかった。さらに、国営化の範囲も社会保障の内容も1970年選挙の人民連合の綱領に明確に謳われており、チリ国民の信を得ていた。実際のところ、物不足とインフレの原因は米国による金融封鎖および銅産業に対する妨害に起因する外貨不足にあったとする説が現在では圧倒的に優勢である。つまり、からなべデモやトラック所有者ストも含め、米国のリチャード・ニクソン政権が各種の経済攪乱工作を行い、それがチリ経済に大きな打撃を与えたと言うべきである。こうして、アジェンデ政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥るに至った。
しかしそれにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持は低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票(7%増)で議席を増加させた(10議席増)。政権の座について2年以上を経過してから現職勢力が獲得した票の伸び率としては「前代未聞」と言われた[1]。この選挙結果を見た反アジェンデ派は、チリ国民が社会主義を渇望していることを再確認し、暴力と抑圧をもってチリ社会を根底から作り変えるしかないと決意を新たにした[1]。とりわけ米国政府内では、この選挙をきっかけに、軍事的解決だけに狙いを定めるべきとする勢力が勢いを増した。あるCIA職員は1973年4月、次のように論じた。「我々の理解しているところでは、今後6か月から1年の間に軍事クーデターを引き起こすことを狙った政策では、政治的緊張を高めることと、経済的な苦難をより深刻なものにすることに努めるべきです。特に、国民の絶望という感覚が軍を動かすためにも、下層階級の間での経済的苦難が必要です。政治的野党、特にキリスト教民主党が計画している大衆運動に対する資金援助は、この絶望という感覚を打ち消してしまい、経済を救う結果につながる可能性があります」[1]。
とはいえ、対チリ秘密工作を統括していた国家安全保障問題担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーは野党に対する資金援助も続けた。とりわけ、チリの最大野党であったキリスト教民主党の右派(フレイ派)には莫大な資金を投入していた(党の指導部に資金を渡したのではなく、右派の個々のメンバーに直接渡した[1])。その結果、1970年の大統領選挙当時は左派が支配権を掌握していた同党は右派が支配するようになり(数の上では左派の方が多数派だった[1])、アジェンデとの協力を拒否して軍事クーデターを支持するようになった。同党右派は、クーデター後に軍は自分たちに権力を譲るものと信じていたからだ[1]。そしてキリスト教民主党は1973年8月22日、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。これによりチリ軍部はクーデターの正当性を得ることになった。
1973年6月29日には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した(戦車クーデター)。このクーデター未遂事件は、軍内部でクーデター派が勢力を増しつつある一方で、まだ機が熟していないことを示していた。そして8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった(8月24日就任)。ピノチェトはプラッツの推薦により陸軍総司令官に選任された。この段階では、アジェンデもプラッツもピノチェトを信頼していた[1]。
この時期にいたっても、チリ国民の間におけるアジェンデ人気は全く衰えていなかった。9月4日の人民連合3周年記念集会には約100万人のチリ国民が集結し、アジェンデ支持のデモ行進を行った。それは、チリ史上最多の参加者を集めたデモだった[1]。これを見たクーデター派は、クーデターを起こせば大規模な抵抗活動が起きると考え、徹底した弾圧が必要との認識を再確認した。
クーデターの足音が迫る中、アジェンデは最後の手段に訴えようとした。国民投票を実施して自身の政権の信任を問うことを考えた。彼は9月9日の昼、「近く国民投票の実施を発表する」とピノチェトに告げた(この時点でもアジェンデはピノチェトを信頼していた)。それを聞いたピノチェトは同日中に他のクーデター首謀者らと会談し、クーデター決行の予定日を当初の14日から11日に早めた。そして10日、アジェンデは閣僚会議の場で、11日に国民投票実施を発表すると決定した[1]。ところが11日の早朝、クーデターが勃発した。アジェンデの国民投票実施の声は国民に届くことなく終わった。
クーデター編集
1973年9月11日早朝、ピノチェトら陸海空三軍のトップと当時カラビネーロス(国家憲兵)のナンバー2であったセサル・メンドーサ=ドゥラン将軍がクーデターを起こした。当時の軍部はチリ社会の階層を反映しており、下層は親アジェンデだったが上層部は反アジェンデであり、下層の者は家族の生活のためにも上層部に抵抗できなかった[1]。またチリ軍部はケネディ政権の時代から米国政府から大々的な支援を受けていたため、アジェンデとしても武力で抗うことは最初から選択肢になかった[1]。実際、彼はクーデターの最中に6度も国民に向けてラジオ演説を行ったが、その中で「武器をとれ」と呼びかけることは一度もなかった[1]。また、クーデターが近づく中、カストロがアジェンデに対して兵器の提供を提案したが、その兵器の利用もアジェンデは禁じた[1]。こうしたアジェンデの武力嫌悪は、彼の生い立ちから容易に推察できるものである[1]。結局、アジェンデ本人と大統領護衛団および国家警察隊の忠誠派だけが大統領官邸を守ることになった。国家警察隊のトップはアジェンデの側についていたが、クーデターの最中に組織内クーデターにより、ナンバー2が警察隊を乗っ取った[1]。ピノチェトがクーデター首謀者のひとりであることをアジェンデが悟るのは、クーデターの最中のことである[1]。
アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃(カストロから贈られたもの[1])を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃を膝に抱えて銃弾2発を発射した[1])。
ちなみに、ホーカーハンターから発射されたロケット弾がきわめて正確に大統領官邸モネダ宮の扉を貫通しているため、パイロットは米国人だったとする説もある[1]。
クーデター後のチリ編集
軍政評議会編集
クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・レイ(Gustavo Leigh)、国家警察隊のセサル・メンドーサ・ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。当初、この4名は同等の立場に立つメンバーで、評議会の委員長は持ち回りとされていた。が、最年長ということで初代の委員長にはピノチェトが就任した[1]。そのピノチェトは、陸軍のトップかつ軍事評議会の委員長という二重の役割を利用することで次第に権力を自分に集中していった。同時に、クーデター直後からチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINA(チリ国家情報局)を自らの直属の組織として創設することで、自分に敵対する者たちを脅すことができた[1]。こうして徐々に独裁体制を固めていくピノチェトを見た空軍のレイ将軍は「クーデターに加わるのが遅かったくせに全権を掌握しているかのように振る舞っている」としてピノチェトを批判したが、1978年に軍事評議会から追放された[1]。
左翼狩り編集
政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの市民や活動家が逮捕・拘束・殺害され、その中には人気のあったフォルクローレ歌手ビクトル・ハラもいた。彼が殺されたサンティアゴの室内競技場エスタディオ・チレには、他にも多くの左派市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。また、左翼系の書籍や雑誌はことごとく没収され、公衆の面前で焚書された。ビクトル・ハラの音楽のマスターテープも破棄された。
前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、クーデターの直後に兵士が自宅に押し入り、家を荒らされた上に蔵書も破棄される狼藉に遭った。9月24日に危篤状態となって病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて無理やり取り調べを受け、そのまま病院到着直後に亡くなった。
またクーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA」の仕掛けた車爆弾によって妻とともに暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携して打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後に非合法化され、75年10月には、党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトンが、亡命先のイタリアで妻と共に襲撃され重傷を負った。
これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、パラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と秘密裏に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していった、所謂コンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。
海外の反応編集
クーデターを主導したニクソン政権は、クーデターが成功すると、自分たちの役割を小さく見せることを目論んだ。9月16日、ニクソンとキッシンジャーは電話で次のような会話を交わした。キッシンジャーが「祝杯でもあげてもらいたいところですが。アイゼンハワーの時代なら我々はヒーローですよ」と不平をもらすと、ニクソンは録音されていることを意識して「だがな、俺たちがやったんじゃないぜ。君も知ってのとおりだ。今回の件では、俺たちは日陰者だ」と返した[1]。結局米国政府は、ピノチェトのチリを即座に承認することは避け、9月24日に静かに承認した。世界で11番目だった。ちなみに、この承認を遅らせるという作戦を提案したのはピノチェトの側である[1]。自分の政権が米国にとって厄介な問題になるとピノチェトが認識していた証拠との説が有力である。
それよりも早く、クーデターの翌々日(13日)に、米国はピノチェト政権を歓迎する旨の公電がホワイトハウスからサンティアゴへ打たれた[1]。その公電では「軍事政権を支援したい、協力したい」としている[1]。
米国政府は経済面でもピノチェト軍事政権を支援した。米国農務省は10月と11月にそれぞれ2400万ドルを供与した。米国国際開発庁は3年間で1億3200万ドルを提供した。米国が牛耳る国際金融機関も対チリ信用供与を再開した[1]。
ピノチェトの側も、抑圧のための装備品も含めて大量の兵器類を米国に注文し、米国もそれを歓迎した。その結果、チリは米国軍需品の輸入国として世界で第5位の地位についた[1]。
プロパガンダの面でも米国政府はピノチェトを支援した。その多くは、ピノチェト政権の国際的イメージアップを狙ったもので、チリのキリスト教民主党の著名な議員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回ってクーデターを正当なものとして説明するというツアーの資金を提供した[1]。
ピノチェトの権力の源泉でありチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINAも、CIAと密接な関係にあった。DINA創設時には、組織化と訓練の面でCIAが協力した[1]。DINA内部にCIA工作員を配置することをCIA副長官が提案したこともある[1]。さらにDINA長官のマヌエル・コントレラスはCIAから報酬を受け取っていた。それは、CIAが進める工作でDINAの協力が必要だったから、とのことだ[1]。
1976年9月、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエルが滞在先のワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で暗殺された。レテリエルは、その一か月ほど前に、ピノチェト軍事政権による人権侵害と同政権による新自由主義的経済政策は表裏一体の関係にあるとする批判記事を『ネーション』誌で発表したばかりだった[1]。この事件は、よりによって米国の首都でのテロ行為であったため、当時の大統領ジミー・カーターが態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係はある程度回復したが元の状態にまでは戻らず、アメリカ政府内にはピノチェトに対する不信感が残った。そして、米国の合法的居住者だった19歳のチリ人カメラマンが生きたまま火をつけられるという事件[1]が米国でも報道されると、米国政府もピノチェトから距離を置くようになり、スポンサーを失ったピノチェトは1990年に大統領を辞任する。レテリエル暗殺がその遠因ともなっていたとする説もある。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐにキューバとの国交を断絶。ソ連、北朝鮮、ベトナム、ドイツ民主共和国、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビアなどの社会主義国側も対抗して次々と断交に踏み切った。当時西側諸国に接近していたルーマニア人民共和国と中華人民共和国だけ国交を継続した[8]。
混乱と崩壊編集
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。
ピノチェトの独裁政権は1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局彼自身が裁かれることはなく2006年に死去した。
チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品編集
小説編集
- ラテンアメリカ
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- イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』木村榮一訳、国書刊行会 1989年/河出文庫(上・下) 2018年 ※下記の映画『愛と精霊の家』の原作
- ガブリエル・ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記~ある映画監督の冒険』後藤政子訳、岩波新書 1986年
- アントニオ・スカルメタ『イル・ポスティーノ』鈴木玲子訳、徳間文庫 1985年 ※同名映画の原作。映画版はイタリアに舞台を移し、時代もパブロ・ネルーダの亡命時代に設定している。
- アメリカ合衆国
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- トーマス・ハウザー『ミッシング』古藤晃訳、ダイナミック・セラーズ 1982年 ※下記映画の原作
映画編集
- 「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作、エルビオ・ソト監督、出演:ジャン=ルイ・トランティニャン他、音楽:アストル・ピアソラ)(ビデオソフト邦題「特攻要塞都市」)
- 「戒厳令の夜」(1980年、日本作品、山下耕作監督、出演:伊藤孝雄、樋口可南子他、音楽:ジョー山中)
- 「ミッシング」(1982年、アメリカ作品、C.コスタ・ガヴラス監督、出演:ジャック・レモン、シシー・スペイセク他、音楽:ヴァンゲリス)
- 「戒厳令下チリ潜入記」(原題:Acta General de Chile)(1986年、スペイン作品、ミゲル・リティン監督)(ドキュメンタリー映画)
- 「愛と精霊の家」(1993年、ドイツ・デンマーク・ポルトガル合作、ビレ・アウグスト監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス他)
- 「愛の奴隷」(1994年、アメリカ・スペイン・アルゼンチン合作、ベティ・カプラン監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェニファー・コネリー、アントニオ・バンデラス他)
- 「死と処女」(1995年、アメリカ作品、ロマン・ポランスキー監督、出演:シガニー・ウィーバー、ベン・キングズレー、スチュアート・ウィルソン)
- 「11'09''01/セプテンバー11」第6話(2002年、イギリス、ケン・ローチ監督、出演:ウラジミール・ヴェガ)
- 「マチュカ〜僕らと革命〜」(2004年、チリ=スペイン=イギリス=フランス、アンドレス・ウッド監督、出演:マティアス・ケール、アリエル・マテルーナ、マヌエラ・マルテリィ、アリーン・クッペンハイム他)
- 「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006年、フランス、ジュリー・ガブラス監督、出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ他) - 1970年代フランスのブルジョワ知識人家庭が、アジェンデ政権の発足やフランコ政権のファシスト的状態に影響を受け、奮闘する様をブルジョワ生活に未練を抱く娘の視点から、アジェンデ政権崩壊までの時期を通して描く。
- 「コロニア」(2015年、ドイツ、フランス、ルクセンブルク、フローリアン・ガレンベルガー監督、出演:エマ・ワトソン、ダニエル・ブリュール、ミカエル・ニクヴィスト) - ピノチェト独裁政権下でナチスの残党パウル・シェーファーと結びついた拷問施設「コロニア・ディグニダ」(尊厳のコロニー、後のビジャ・バビエラ)の実態を描いた。
音楽編集
- キラパジュン El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)他多数
- インティ・イリマニ Canto a los caidos(倒れたものに捧げる歌)ほか多数
- シルビオ・ロドリゲス Santiago de Chile(「Días y flores」収録)ほか
- スティング「孤独なダンス」They Dance Alone(1987年のLP『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録)
- フレデリック・ジェフスキー 「不屈の民」変奏曲
など
その他編集
- 『MASTERキートン』 - 第24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。
- 『プリンプリン物語』 - 劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる。
- 『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 - 冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。
- 『ゴルゴ13 33+G』 - チリのコピアポ鉱山落盤事故に巻き込まれたデューク東郷が大統領暗殺の犯行は自身によるものだと回想するシーンがある。
脚註編集
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo 『アメリカのチリ・クーデター』. Amazon Services International. (2019)
- ^ “Chile's buried secrets”. LAT. www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。
- ^ “Chilean leader's body exhumed”. LAT. www.latimes.com (2011年5月24日). 2011年7月21日閲覧。
- ^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
- ^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
- ^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点におけるアーカイブ。 2011年7月21日閲覧。
- ^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点におけるアーカイブ。 2011年7月21日閲覧。
- ^ Valenzuela, Julio Samuel; Valenzuela, Arturo (1986). Military Rule in Chile: Dictatorship and Oppositions. Johns Hopkins University Press. p. 316.
参考文献編集
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。
- 増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年。
- ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。
- 朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。
- ホアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。
- アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。
- J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。
- 伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。
- 高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。
- 安藤慶一『アメリカのチリ・クーデター』Amazon Services International、2019年。
関連項目編集
- アウグスト・ピノチェト
- ヘンリー・キッシンジャー
- ビクトル・ハラ
- 開発独裁
- アメリカナイゼーション
- 内政干渉
- 白色テロ
- アメリカ同時多発テロ事件(2001年の「9・11」)
外部リンク編集
- Chile Documentation Project: 公開されたアメリカの外交文書