「筑紫哲也」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
153行目:
*[[上杉隆]]等は筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113" />。
*[[田中康夫]]とは『朝日ジャーナル』時代に「[[若者たちの神々]]」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた[[細川護熙]]内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく<ref>田中康夫「ゲンチャリにまたがって」『[[神戸震災日記]]』所収、[[新潮社]]、文庫版181ページ ISBN 978-4101434087</ref>、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった<ref>筑紫哲也『ニュースキャスター』、集英社新書版200-202ページ ISBN 978-4087201451</ref>。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった<ref>[http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/number00007451.php 筑紫死亡前後のペログリ日記]</ref>。一方で筑紫は『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる<ref>[http://www.pot.co.jp/oikenparis/20091001_162903493914429.html 及川健二のパリ修行日記 2009年10月1日]</ref>。
*元首相の[[森喜朗]]は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、'''森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。'''一国の総理と[[マスメディア|メディア]]の間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている<ref name ="morichan">森喜朗(聞き手[[大下英治]])「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2007年9月P51-52</ref>。
*筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観は[[ステレオタイプ]]という批判がある。[[日本経済新聞社]]元那覇支局長[[大久保潤]]と[[篠原章]]の共著『沖縄の不都合な真実』([[新潮新書]]、[[2015年]]、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、[[琉球史]]研究の第一人者で[[副知事]]だった[[高良倉吉]]が、「いつのまにか、沖縄人は[[大江健三郎]]と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、[[戦争]]も[[基地]]も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という[[依存]]体質や[[陳情]]文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に[[家系]]を持つ[[与那原恵]]は、『迷惑な沖縄愛』という小論を[[別冊宝島Real]]『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「[[少女]]」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、[[中学生]]や[[高校生]]の少女が[[作文]]や[[詩]]を読み上げるが、この集会でも[[普天間高校]]の[[女子高生]]が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、[[無垢]]で清らかな自分と日本と米国の[[大国]]の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、[[沖縄戦]]の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。