「埼玉県庁舎」の版間の差分

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その3日後、すぐに県庁の移転先として[[大宮市]](現さいたま市)、[[熊谷市]]がそれぞれ提案し、[[浦和市]]の現地再建派と対立した。放火以前から、移転を主張する一部の強硬な団体などが存在しており、県庁移転目的の放火も疑われたが、11月12日に火元の消防課会計係員の24歳の男を逮捕した。当初は犯行を強く否認していたが、一転自供し、[[1951年]]1月に懲役12年の実刑を言い渡された。
 
ところが、[[仮釈放]]中の同年に[[法務大臣]]、[[浦和警察署]]、[[さいたま地方検察庁|浦和地検]][[検事正]]宛てに「私は無罪」という遺書を残し、[[水戸市]]内の山中で服毒自殺したため、真相は分かっていない。また、この件で当時の県知事である[[西村実造]]の責任問題へ発展し、辞表を提出する事態となったが、埼玉軍政部に忠告されて撤回した<ref>しかし西村は、1949年(昭和24年)に発生した日本シルク事件により収賄容疑で逮捕、起訴されて知事を辞職した。</ref>
 
結局移転問題は、埼玉県議会に設置された県庁舎建設特別委員会まで持ち越され、[[1950年]](昭和25年)[[3月23日]]、浦和に存続することが決まった<ref>埼玉県行政史 第3巻</ref>。移転問題に決着がついたことで庁舎の再建が始まり、[[1955年]]10月に現在の第一庁舎が完成した。
 
その20年後には、庁舎が手狭になったことから第二庁舎が建設された。第二庁舎の場所は、以前は官舎が建ち並んでおり、北側に県庁の裏門があったことから、現在でもこの通りを「裏門通り」と呼んでいる。なお、第一庁舎と第二庁舎は距離があるため、双方の3階を繋ぐ長い連絡通路が設置されている。

県庁周辺には、埼玉県衛生会館、埼玉県自治会館(閉鎖し駐車場になった)、埼玉県農林会館、職員会館、[[埼玉県危機管理防災センター]]などがある。
 
=== 建て替え ===