「メクレンブルク=シュトレーリッツ」の版間の差分
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|変遷1=成立
|変遷年月日2=1918年
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|変遷年月日3=1918年
|変遷3=自由州成立
|変遷年月日4=1934年1月1日
|変遷4=メクレンブルク=シュヴェリーン自由州と合併
|変遷年月日5=
|変遷5=
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|通貨=
}}
'''メクレンブルク=シュトレーリッツ'''([[ドイツ語]]:Mecklenburg-Strelitz)は、[[ドイツ]]北部に存在した公国(1815年より大公国)。中世より存在した[[メクレンブルク]]地方の東端5分の1程度の地域(およそ現在のメクレンブルク=シュトレーリッツ郡{{enlink|Mecklenburg-Strelitz (district)|a=on}}に相当)、およびかつてのラッツェブルク司教領{{enlink|Bishopric of Ratzeburg|a=on}}であった飛び地(現在の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の一部)から構成されていた。成立当時、公国の北端は[[スウェーデン領ポメラニア]]{{enlink|Swedish Pomerania|a=on}}に、南端は[[ブランデンブルク辺境伯領]]に接していた。1918年に[[ドイツ革命]]で君主制が廃されると、その領地を引き継いでメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州が成立した。1934年にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州と合併してメクレンブルク州となったことでメクレンブルク地方は18世紀以来の統一を果たした。現在は[[ドイツ連邦共和国]][[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の一部となっている。
== 歴史 ==
===メクレンブルク=シュトレーリッツ公国 (1701-1918年)===
1701年、旧{{仮リンク|メクレンブルク=ギュストロー
シュトレーリッツ公国は[[神聖ローマ帝国]]で最も発展の立ち遅れた地域の一つであったが、公爵家の娘たちは次々に良縁を見つけてきた。[[アドルフ・フリードリヒ4世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ公)|アドルフ・フリードリヒ4世]]の妹[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャルロッテ]]は[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の妃となり、アドルフ・フリードリヒ4世の弟[[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]]の娘[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]は[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の妃となった。
公国は1808年に[[ライン同盟]]に加盟し、ウィーン会議では本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公国と一緒に大公国に昇格、[[ドイツ連邦]]の一員となった。メクレンブルクはそのまま1867年には[[北ドイツ連邦]]、1871年には[[ドイツ帝国]]の構成国となった
[[ファイル:Schloss Neustrelitz Postkarte 1912.jpg|thumb|240px|ノイシュトレーリッツ城、1945年に破壊された]]
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1918年2月23日にアドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、大公家の家長はカール・ミヒャエルとなったが、カール・ミヒャエルは敵国であるロシアにいたため即位できなかった。そこで彼はシュトレーリッツの摂政を務めていたメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]に対し、自身の大公位継承権を放棄したい旨を書いた手紙を送ったが、この手紙はドイツが共和制に移行した1919年になってようやく届いた。このためシュトレーリッツ大公国が1918年11月に消滅するまでの間、本来の大公となるべき人物が大公位に就かず、またその即位の意思も明確にならない宙吊りの状態が続いた。
===メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州 (1918-1934年)===
[[File:Wappen Freistaat Mecklenburg-Strelitz.png|thumb|right|240px|メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州章 (1921年)]]
1918年に[[ドイツ革命]]によって君主制が廃止されると、メクレンブルク=シュトレーリッツは[[自由州 (ドイツ)|自由州]]として[[ヴァイマル共和政]]に基づく議会制民主主義国家となった。
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州は[[ドイツ国]]でも特に小さい州のひとつであり、君主制廃止からわずか数年で財政的に維持できないことが明らかになった。1926年には接収した大公家の財産が底をついたことから、[[ライプツィヒ]]の[[ライヒ裁判所]]にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合併を訴え出たが、うまくいかなかった。また、1926年にはメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州がメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を相手取ってドイツ・ライヒ国事裁判所に旧修道院および旧領の共同処分をめぐる裁判を起こした。ドイツ・ライヒ国事裁判所での公判でメクレンブルク=シュヴェリーン自由州は、1701年のメクレンブルク=シュトレーリッツ公国の成立の経緯を引き合いに、アドルフ・フリードリヒ6世の死によってシュトレーリッツ大公家が断絶した以上、その所領は本家たるシュヴェリーン大公家に戻ったのであり、メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州にはそもそもシュトレーリッツ大公家の資産に関する権利はないと主張した。しかし、メクレンブルク=シュヴェリーン自由州・メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州の双方とも州憲法で旧大公国の所領を州の範囲と定めていることから、その主張は退けられた<ref>Zwischenentscheidung des StGH vom 5. Juni 1926, [[Entscheidungen des Reichsgerichts in Zivilsachen|RGZ]] 113, Anhang S. 1 f. [http://www.saarheim.de/Entscheidungen/RGundStGH/StGH%20in%20RGZ%20113,%20Anh%201.pdf Digitalisat]</ref>。
1932年には[[プロイセン自由州]]に吸収される計画が持ち上がったが、[[ナチ党]]が1934年1月1日にメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州とメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を合併させてメクレンブルク州 (Land Mecklenburg) としたことから頓挫した。しかし、この合併の採決の直後に州議会が解散されたため、メクレンブルク州は実際にはナチ党のメクレンブルク[[大管区 (ナチ党)|大管区]]そのものとなった。
== メクレンブルク=シュトレーリッツの統治者 ==
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*[[アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ6世]](在位:1914年 - 1918年)
*メクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]](摂政、在任1918年)
=== メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州首相(1918年 - 1933年) ===
* ペーター・シュトゥープマン ([[ドイツ民主党]]、1918年 - 1919年)
* ハンス・クリューガー ([[ドイツ社会民主党]]、1919年)
* クルト・フォン・ライプニッツ (ドイツ社会民主党、1919年 - 1923年)
* カール・シュヴァーベ ([[ドイツ国家人民党]]、1923年 - 1928年)
* ハリー・ルーデヴィヒ (無所属) および エーリヒ・コルドゥア (ドイツ国家人民党) (暫定政府、1928年)
* クルト・フォン・ライプニッツ (ドイツ社会民主党、1928年 - 1931年)
* ハインリヒ・フォン・ミヒャエル (ドイツ国家人民党、1931年 - 1933年)
* フリッツ・シュティヒテノート ([[ナチ党]]、1933年)
== 外部リンク ==
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