「イアン・ウィリアムス」の版間の差分

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== 略歴 ==
来日前にはラグビーオーストラリア高校代表、そしてラグビーオーストラリア代表(ワラビーズ)に選出された程、[[オーストラリア]]でも実力は認められていた。オーストラリア代表では、[[1987年]]〜[[1990年]]の間にキャップ数17を記録している<ref name="Ian1">[http://koichi-murakami.cocolog-nifty.com/loverugby/2008/08/post_3e2d.html イアンのこと]村上晃一ラグビー愛好日記、[[2008年]][[8月28日]]記事。</ref>。1988年にはオーストラリアの年間最優秀選手にも選出され、翌[[1989年]]には[[ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ]]と対戦、南アフリカ協会設立100周年記念の世界選抜にも選出された<ref name="Ian1"/>。トリッキーな動きが魅力の[[デイヴィッド・キャンピージ]]とは対照的にランニングスピードで勝負する快足[[ラグビーのポジション#スリークォーターバック|WTB]](ウィングスリークォーターバック)でもあり、世界ベスト2ウィングにも選ばれた<ref>[http://menzine.jp/trivia/ragubikessyo0407/ ラグビー史に残る奇跡の同点トライ!ロスタイムでのイアンの激走]MEN人(メンジン)、2014年4月18日記事。</ref>。ラグビーの傍ら、[[オックスフォード大学]]にも留学し、[[弁護士]]資格を取得した。[[ケンブリッジ大学]]との定期戦([[ザ・バーシティマッチ]])にも出場した事がある<ref name="Ian1"/>。[[ラグビーワールドカップ]]に出場できるだけの実力も持っていたが、活躍した時期が[[ラグビーワールドカップ1987|1987年第1回W杯]]と[[ラグビーワールドカップ1991|1991年第2回W杯]]の谷間の時期だったことと、オックスフォードへの留学、怪我、そして当時のワラビーズ監督だったボブ・ドゥワイヤーとの確執<ref name="Ian1"/>などが相まってワールドカップへの出場は果たせなかった。
 
1989年に来日し、[[神戸製鋼]](現・[[神戸製鋼コベルコスティーラーズ]])に入社した。当時、社会人チームに加入した外国人選手については、1年間の社業業務を務めなければ公式戦に出場できないという日本ラグビー協会の規約があり、ウィリアムスも1989年度のシーズンには出場できなかった。翌1990年度シーズンより出場し始め、持ち前の快足を活かして、初期の神戸製鋼黄金期を支えた。