「佐川満男」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
52行目:
貿易商を営む家の4人兄弟の末っ子として神戸市[[垂水区]]に生まれる<ref name=sanspo>[https://www.sanspo.com/geino/news/20181211/owa18121110000005-n1.html 【関西レジェンド伝】佐川満男(1)難波のジャズ喫茶で内田裕也と歌った]サンスポ・コム、2018.12.11</ref>。外国人の別荘地だった[[塩屋]]の実家の洋館は現存する<ref name=sanspo/>。[[神戸市立塩屋小学校]]、[[神戸市立鷹取中学校]]を経て[[神戸市立須磨高等学校]]中退<ref name=sanspo/>。絵を習っていた画家中西勝の勧めで関西二紀展に出品し、入選<ref>[https://kobecco.hpg.co.jp/wp-content/uploads/2019/04/2003020304.pdf 人生は旅や。ぼくらは旅人]『月刊神戸っ子』2003年2・3月号 p56</ref>。大阪・難波のジャズ喫茶「銀馬車」のオーディションに合格し、バンド「クレイジー・バブルス」のボーカルとして舞台に立ち、[[内田裕也]]とツインボーカルの人気バンドとなる。東西ロカビリー大会で知り合った「[[ザ・スイング・ウエスト]]」の[[堀威夫]]に誘われて上京<ref name=sanspo/>。
 
[[1960年]]、来日した[[ニール・セダカ]]のバンドをスイング・ウエストが務めたのが縁で、セダカより楽曲提供を受け、「二人の並木径」で[[ビクターレコード]]から佐川ミツオとして歌手デビューした<ref>[https://www.sanspo.com/geino/news/20181218/owa18121810000001-n1.html 【関西レジェンド伝】佐川満男(2)興奮して眠れない…「今は幸せかい」できた夜]サンスポ・コム、2018.12.18</ref>。リバイバルブームに乗った「無情の夢」、「[[ゴンドラの唄]]」「背広姿の渡り鳥」がヒットし、低迷期を経て[[1968年]]、「今は幸せかい」が大ヒット、『[[NHK紅白歌合戦]]』にも4回出場した。[[1976年]]に引退し、クラブ経営者となるが、[[1977年]]12月に歌手として復帰した。その後再び芸能界を離れるも、[[1986年]]に復帰した。現在は関西を中心に活動をしており、関東での仕事は映画・ドラマの撮影や懐メロ番組・コンサート出演などで散発的に行う程度である。
 
俳優としても、映画、テレビドラマなどに出演している。趣味は絵画、料理、登山。