「三方楽所」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎楽家: 内容追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Kinori (会話 | 投稿記録)
m →‎歴史: 南都へのリンクを奈良に変更
6行目:
古代律令制では[[雅楽寮]]が置かれていたが、しだいに諸家が家芸として独占的に世襲するようになり、律令制度の解体に伴って10世紀に[[蔵人所]]におかれた'''楽所'''(がくそ)に実質が移ることになる。ほぼ同時期に南都や天王寺にも楽所が成立し、これらの楽所に属する楽人らも宮廷に召されて雅楽が行われていた。しかし[[応仁の乱]]を端緒とする動乱によって京都の楽人は四散してしまい、宮廷雅楽は南都や天王寺の楽人らによって細々と行われる程度に衰退する。
 
[[安土桃山時代]]になると、[[正親町天皇]]・[[後陽成天皇]]などによって[[南都([[奈良]]や天王寺の楽人の一部に京都移住が命じられるようになり、四散していた京都の楽人も次第に京都へ帰還するようになった。[[江戸幕府]]が成立した[[慶長]]8年([[1603年]])の『禁裏様楽人衆』には三方あわせて24人の名前がみえる。江戸時代初期の三方楽人の経済力は38家合わせても250[[石高|石]]程と貧弱であり、寺社勢力に保護された南都方や天王寺方はともかく、[[公家]]に隷属していた京都方では、生活に困窮していたようである。[[寛文]]5年([[1665年]])の[[徳川家康|家康]]50回忌法要に際して三方楽人57名が江戸に向かい、三方楽所領2000石が給されることになった。三方楽所領2000石は五ツ物成で、分配内訳は以下の通りであった。
{| class="wikitable"
|家領米||style="text-align: right"|510[[石高|石]]||三方17名ずつ計51名に10石ずつ