「レオ1世 (東ローマ皇帝)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
雑草取り </ref>>
39行目:
474年1月18日、73歳で死亡した。
 
レオ1世は、皇帝就任に際して[[コンスタンティノープル総主教]]によって戴冠された初めての[[ローマ皇帝]]であると考えられている<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="ギボン5p340" /><ref name="尚樹1999p51">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.51。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.84。</ref><ref>レオ1世に先だってマルキアヌスが先例であったとする説もある。([[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.119)</ref>。これ以降、総主教による戴冠は東ローマ帝国における皇帝就任の伝統となり、皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="尚樹1999p51" /><ref name="オストロゴルスキー2001p85">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.85。</ref>><ref group="注">ただし、井上浩一は論文「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」([[#笠谷2005]]p194-5)にてレオン一世の戴冠について述べたくだりで「総主教による戴冠は、それ自体として皇帝を生み出すものとは考えられなかった。総主教は、ある場合には元老院・市民・軍隊の代表者として戴冠し、ある場合には皇帝によって指名された人物を改めて聖別したに過ぎない」としている</ref>。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。<ref group="注">[[#笠谷2005]]p198、井上浩一「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」p199にて井上浩一は、「皇帝自らが戴冠するという式次第」がマケドニア朝で発生したことについて「帝位の世襲が確立した時期」であったとコメントしている</ref>。この聖職者による皇帝戴冠という東ローマ帝国の風習は次第に[[古代ローマ]]の伝統を押しのけ[[中世]]的ローマ戴冠式の本質的部分となり<ref name="オストロゴルスキー2001p85" />、後には[[カール大帝]]や[[オットー1世]]の戴冠を経てローマ帝国の西方領土にも浸透することになった。
 
また、彼は法律を[[ラテン語]]ではなく[[ギリシャ語]]で制定した最初のローマ皇帝ともされる。