「ファーザー・ディヴァイン」の版間の差分
タグ: カテゴリを含まない記事の作成 2017年版ソースエディター |
(相違点なし)
|
2020年3月22日 (日) 05:55時点における版
ファーザー・ディヴァイン(、1876年 - 1965年9月10日)は、アメリカ合衆国の宗教指導者。アフリカ系アメリカ人の説教師で国際平和ミッション運動の設立者である。
生涯
ディバインの生い立ちと本名は、不明だが調査によればジョージ・ベイカーでメリーランド州ロックビルの黒人ゲットーであるモンキー・フランで、ジョージ・ベイカー・ジュニアとナンシー・ベイカーの間に生まれた。両親はでの元奴隷の働き者だったが貧しく1897年5月に母親が亡くなるとディバインは失踪し数年間は不明だが1900年頃にはメリーランド州ボルチモアで昼間は庭師、夜は副牧師として働いた。1907年に説教師のサミュエル・モリスと出会い影響を受け自らを神と公言するようになる。彼らはコンビを組みディバインは「メッセンジャー」、モリスは「ファーザー・ジェホビア」と名乗り始め、独自の伝道活動をするようになった。後に牧師のジョン・A・ヒッカーソンも加わり,聖ヨハネ・ザ・ヴァインと名乗ったが方向性の違いから1912年に解散した。
1913年にディバインは、ジョージア州ヴァルドスタに行き群衆に説教をした。地元の牧師たちに告発されて逮捕され精神病院に送られる代わりにジョージア州から追放されて少数の改宗者を連れてニューヨーク市に到着した。マンハッタンにしばらく滞在した後ブルックリンに移住し職業紹介所を運営して召使や奉公人を斡旋した。この時、ファーザー・ディヴァインと再び改名した。1919年にロングアイランドのセイヴィルに24人の信者と共に移り住んだ。ここでも職業紹介所を運営して召使や奉公人を斡旋し信者たちには結婚、飲酒、喫煙、ギャンブルを禁じて真面目に礼儀正しく働くように指導した。
しばらくは地域社会からの評判も良かったが、毎週日曜日には無料の食事が振舞われ大恐慌で苦しんでいた黒人たちが訪れるようになった。各地に教会や布教所を設置して信者は増えていったがセイヴィルでの日曜日の宴会は規模が大きくなっていき地域住民が不安がるようになった。そのため1931年にディバインは警察に逮捕された。裁判では有罪を宣告され懲役1年と罰金を言い渡されたが上訴し1932年に釈放された。黒人大衆はディバインに同情的で釈放されると熱狂的に歓迎された。
1930年代~1940年代は運動の絶長期で全米各地や海外の教会で布教を行い大恐慌で上に苦しむ人々に無料で食事を振る舞った。最盛期でも信者数は数万人程度と考えられているが人種融合の考えから白人信者も少数ながら存在した。飲食店、雑貨屋なども経営し特にホテル業は成功した。国際的にも知名度を上げその影響力を期待してニューヨーク市長など当時の政治家も接近した。しかし、元信者から寄付した財産の返還を求められ裁判所も認めたことから1942年にフィラデルフィアに幹部を連れて移住する。これで信者は減少したが1950年代~1960年にかけては運動はまだ力を持っていた。
1946年に最初の妻が信者が亡くなると白人信者の若い女性と結婚した。当時、異人種間の結婚は多くの州で違法だったため世間にショックを与え一部の信者は離れた。1953年からは郊外のウッドモントの屋敷で過ごすようになり1965年9月10日に亡くなった。彼の未亡人が運動の後継者となったが信者数は減少しつづけている。
参考文献
- 『脱文明のユートピアを求めて』 リチャード・T・シェファー ウィリアム・w・ゼルナー 徳永真紀 松野亜希子 訳 筑摩書房