「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の版間の差分

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=== 親ソ連時代 ===
ユーゴスラビアが建国されたころ、世界は[[冷戦]]に突入していた。冷戦の初期において、ユーゴスラビア連邦は、[[ヨシフ・スターリン]]の指揮下にある[[ソビエト連邦|ソ連]]と手を組み、[[1946年]]8月9日と8月16日にはユーゴスラビアの領空を飛行していたアメリカの航空機を撃墜した。これらは冷戦期において初めての[[西側諸国]]の航空機の撃墜であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]はチトーに対して強い不信感を持ち、アメリカは軍に対してユーゴスラビア侵攻を求めた<ref name="autogenerated1">[http://www.youtube.com/watch?v=3ZnD45Y9W8Y YouTube - Broadcast Yourself<!--Bot-generated title-->]</ref><ref>[http://users.skynet.be/Emmanuel.Gustin/faq/shotdowns.html Cold War Shootdowns<!--Bot-generated title-->]</ref>。しかし、ユーゴスラビアとソ連の盟友関係にもかかわらず、スターリンもまたチトーに対して不信感を持ち、それぞれ互いの手法に同意しなかった<ref name="autogenerated1"/>。ユーゴスラビアは、当時スターリンが唱えていた[[一国社会主義]]を支持していた周辺の他[[東側諸国]]とは異なり、国境を越えた国際的な革命([[国際社会主義]]希求組織)を組織し、ユーゴスラビアの人々はチトーがふさわしい指導者であり英雄であると見ていた。このことは、故[[トロツキー]]により唱えられていた国際共産主義を思い起こさせ、政敵・故[[レーニン]]後継者レース勝者であったスターリンを大きく苛立たせていた。スターリンは、ソ連が全ての東側諸国を支配することを望んでいた<ref name="autogenerated1"/>。チトーとスターリンの不和は、ユーゴスラビアの経済をソ連や他の東側諸国と結びつけることをチトーが拒否したことによって、いっそう高まっていった。ソ連のプロパガンダ映画製作者たちが、ユーゴスラビアのレジスタンスを描いた映画を作製し、その中でのチトーの果たした役割を矮小化したことが明らかになるに至り、チトーとスターリンの関係は終わった<ref name="autogenerated1"/>。しかし、映画製作に関連したこの状況は、映画製作者らがソ連のスパイであったことが明らかになった時点でさらに悪化した。このことにチトーは激怒し、[[1948年]]、ユーゴスラビアとソ連の危機はスターリンからの最終警告が発されて緊張感が高まった。最終警告では、ユーゴスラビアソ連の[[衛星国]]であった[[ブルガリア人民共和国]]と直ちに連邦を結成することを求めていた。チトーは自国の独立を損ねるこの求めを拒絶し、スターリンはこれに対してユーゴスラビアの共産主義者を[[コミンフォルム]]から追放することで応じた。これによって、ユーゴスラビアとソ連の残されていた関係は全て絶たれた。
 
土地改革が導入され、多くの人々が土地を獲得した。収穫量の80%の固定価格での強制買取は少なくなった<ref>Tito's Yugoslavia, Duncan Wilson p43</ref>。議会では、農民の利益は[[ドラゴリュブ・ヨヴァノヴィッチ]](Dragoljub Jovanović)の手によって守られていたが、ヨヴァノヴィッチは後に逮捕された<ref>Tito's Yugoslavia, Duncan Wilson p44</ref>。