「波多野元清」の版間の差分

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始め、[[仙甫寿登]]の弟子となって名を寿浩・号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになって還俗したという(馬部隆弘は早世などで家督を継げなかった長兄がいたと想定する)<ref name=babe>馬部、2018年、P117.</ref>。
 
[[丹波国]]西部を支配する[[国人]]の一つに過ぎなかったが智勇兼備の名将で、[[八上城]]を築城した。多紀郡の[[丹波酒井氏|酒井氏]]を酒井合戦で、長沢氏を福徳貴寺の合戦で撃退した。その結果さらには丹波における[[丹波酒井氏|酒井氏]]、長沢氏らの有力な国人を次々と支配下に置き、細川高国から信頼を得て次弟の[[香西元盛]]は永正4年([[1507年]])に死去した[[香西元長]]の名跡を、同じく三弟の[[柳本賢治]]は永正17年([[1520年]])に死去した[[柳本長治]]の名跡を継いでいる(賢治を兄、元盛を弟とする文献もあるが、当時の日記における記述<ref>『二水記』大永6年11月5日・『細川両家記』大永6年7月13日条。</ref>や実際に2人が両家に入嗣した時期、更には香西氏と柳本氏の家格の差から元盛が兄、賢治が弟とするのが正しい<ref name=babe/>)。
 
[[大永]]6年([[1526年]])、香西元盛が[[細川尹賢]]の讒言を信じた[[細川高国]]に殺害されると、柳本賢治と共に蜂起し[[細川氏]]の勢力を丹波から駆逐して丹波を統一。当時、幕政の中心にいた高国を[[三好元長]]らと共に討って[[戦国大名]]として名乗りを上げた。その実力を高国を討って([[桂川原の戦い]])政権を握った[[細川晴元]]にも認められ、[[室町幕府]]の[[評定衆]]にも列せられている。