「アクション映画」の版間の差分
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Damatepoudayo (会話 | 投稿記録) 西部劇に出典 |
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映画の主題は[[主人公]]が、社会枠を貫通して目標に向かって行動する貫通行動にある。[[ぴあ]]より出版されている『アクション・ムービー究極大鑑』はアクション映画の定義が難しいとしているが、観客により決める立場に沿っている。フランスの哲学者[[ジル・ドゥルーズ]]は『シネマ1 運動イメージ』で映画の中のアクションの役割と効果について明確な定義をしているし、映画評論家の[[田山力哉]]は『映画小辞典』で各ジャンルにアクションは存在するとした見解を示している。
田山はまたアクション映画は映画を製作した国ごとの特色があるとしている。映画史で見ると、西洋であれば[[西部劇]]、スパイ・アクション、日本であれば[[時代劇]]、
== 分類 ==
映画の分類としては
ドラマとしての構造は、アクション映画も他のドラマと変わる点はない。時代や場所が明確であり、導入部から解決部までのシークエンス(段落)で主人公とその内面に葛藤を引き起こす多くの環境(敵)の対比が
このため設定や人間関係にテーマとしての味付けをする。前述の『アクション・ムービー究極大鑑』はアクション映画を「ポリス・アクション」「ミリタリー・アクション」「ライド・アクション」「エスケープ・アクション」「SF・アクション」「クライム・アクション」「カンフー・アクション」「アドベンチャー・アクション」「チャンバラ・アクション」「ガン・アクション」に分けている。
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ポリス・アクションであれば法治国家の建前から犯罪者を野放しにして警官としての倫理を全うしようとする主人公に足かせを嵌める管理社会との対決([[ダーティー・ハリー]])や、師匠を殺された未熟な青年が敵を倒すまでに苦しい修行に耐え抜いて宿願を果たすカンフー・アクションもある。またクライム・アクションは犯罪者が主人公の場合に最後に死ぬか、生き延びても未来の到着点に黒点をつける([[ゲッタウェイ]])のが製作側の不文律として長く存在していた。男同士の友情([[特攻大作戦]])や大義への献身もアクションのテーマとして不偏性を持ちつづけている。
しかし体制や権力の側との対決や勧善懲悪は、1970年代の
== アクションに対する顕彰 ==
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== 代表的な作品(モチーフ別) ==
===
* [[昭和残侠伝]]シリーズ
* [[博奕打ち 総長賭博]]
* [[仁義なき戦い]]シリーズ
=== 時代劇 ===▼
* [[七人の侍]] (1954年)▼
* [[蜘蛛巣城]] (1957年)▼
* [[柳生一族の陰謀]] (1978年)▼
* [[赤穂城断絶]] (1978年)▼
* [[影武者 (映画)|影武者]] (1980年)▼
* [[魔界転生#映画|魔界転生]] (1981年)▼
* [[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]] (1983年)▼
* [[将軍家光の乱心 激突]] (1989年)▼
* [[新・影の軍団]]シリーズ (2003年)▼
=== 武術・格闘技 ===
* [[姿三四郎 (映画)]] (1943年)
* [[柔道一代|柔道一代シリーズ]]
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=== 刑事 ===
* [[フレンチ・コネクション]]シリーズ▼
*[[48時間 (映画)|48時間]]
* [[ビバリーヒルズ・コップ]]シリーズ
* [[ブリット]]
* [[やくざ刑事|やくざ刑事シリーズ]]
**[[やくざ刑事]]
▲* [[フレンチ・コネクション]]シリーズ
* [[ダーティハリー]]シリーズ
* [[麻薬売春Gメン|麻薬売春Gメンシリーズ]]
74 ⟶ 91行目:
*[[ラッシュアワー (映画)|ラッシュアワー]]シリーズ
*[[踊る大捜査線]]シリーズ
▲* [[仁義なき戦い]]シリーズ
▲=== 時代劇 ===
▲* [[七人の侍]] (1954年)
▲* [[蜘蛛巣城]] (1957年)
▲* [[柳生一族の陰謀]] (1978年)
▲* [[赤穂城断絶]] (1978年)
▲* [[影武者 (映画)|影武者]] (1980年)
▲* [[魔界転生#映画|魔界転生]] (1981年)
▲* [[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]] (1983年)
▲* [[将軍家光の乱心 激突]] (1989年)
▲* [[新・影の軍団]]シリーズ (2003年)
=== 探偵 ===
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** [[ファンキーハットの快男児]]
** [[ファンキーハットの快男児 二千万円の腕]]
* [[探偵物語]]
=== 冒険 ===
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